言語学版 ガリレオ ch.8
第8章 ぼかす言語
こんなカッコいい不良じいさんになりたい。
そう思わせてくれる対談集が、この ↓ 本である。
重松さんの含蓄ある言葉も胸に刺さるが、それ以上に鶴見俊輔さんの生きざま、考え方に脱帽しっぱなしである。
その中でも、鶴見さんがアメリカでヘレンケラーに会った話は印象深い。
すでに歴史的偉人のヘレンケラーに、実際に会って話したことがあるというのは、驚きである。
そして、unlearnというのは「実に味わい深い」言葉である。
この un-は「否定」ではない。
否定なら、unlearnは「習わない」という意味になってしまう。
そうではなく、un-は「逆」という意味である。
つまり、unlearnは「習う」とは逆の意味となる。
具体的には、learnは「習う」というインプットであるので、unlearnは「習ったものを応用する」というアウトプットになる。
このことは、happyとunhappyの関係を考えるとよくわかる。
(『英語学点描』 久保田正人 著より)
happyは「幸せ度マックス」で、unhappyはその逆、つまり、「幸せ度ゼロ」なのである。
つまり、all or nothingの関係にある。
実は、日本語はマックスとゼロを非常にぼかす。
「なさすぎる」という言い方が、そのことをよく表している。
「ない」のに、そこに程度を表す「すぎる」がつく。「ゼロすぎる」と言っているのと同じ。
つまり、「ない」=ゼロ が成り立っていない。
「実に非論理的だ」
実際、この感覚はアメリカ人にとっては謎のようである。
(『文化と発想とレトリック』 巻下吉夫・瀬戸賢一 著より)
このほかにも、日本語は数量もぼかす。
たとえば、リンゴを3つ買うときも「リンゴを3つほど」くださいという。
日本語はぼかす言語なのである。
To be continued.