健やかなるときも、病めるときも
まだ誕生日は嬉しい。早く大人になりたいとおもっている。あと少しで誕生日だ。去年の誕生日にはディズニーランドに行き、帰ってきて夫とふたりコロナにかかった。夢のような気分と、地獄を一挙に味わって、でもそのどちらの瞬間にも夫がそばにいて、どちらの喜びも辛さも一緒に感じて、夫婦ってこんな感じで生きていくのかな?と考えたりしていた。
健やかなるときも、病めるときも。
それはつまりこういうことかも、とほんの少しだけ分かったような気になったりしていた。今年は、どんな旅物語が待っているだろう。大切なひとに会いに行く旅をする予定である。
今日は最近実感した夫の好きなところについて書こうと思う。その2である。その1はよかったらこちらから。👇
故・上島竜平さんの奥さまである上島光さんの著書『竜ちゃんのばかやろう』を読んだ。泣きながら、読んだ。自分だったら、と考えて涙が出た。そのあと夫にわたしは「死なないで。」と言って泣いた。想像してみただけで、胸が苦しくて、耐えきれない思いがする。
いちばん大切なひとがもしも突然いなくなってしまったら。誰にだって起こりうるこの悲劇を受け止めているひとが今日も世界にいる。
家に帰れば夫がいて、夜中に目を覚ましたら隣でいびきをかいて寝ている夫がいて、面白いことがあったら離れた場所にいても電話をしたりメッセージを送ったりしたくなる夫がいて、ボードゲームの相手をいつでもしてくれる夫がいて。当たり前の日々のなかにある全部が奇跡みたいな出来事。日常の中にある全ての愛が全部とっておき。
毎日、全てに感動することは難しいから時折でもこうして心を込めて、ありがとうって思う。
自ら姿を消してしまったことは、決して悪ではない。彼には彼の死生観があり、誰がなんと言おうと彼の人生は彼のものだから。
それに光さんの本は悲しいのに笑けて、やっぱり悲しかったのに、心はあったまった。お会いしたこともないのにふたりの人生をたくさん見せてもらって嬉しいきもちだった。ぜひ大切なひとのことを考えながら読んで欲しい一冊である。
それでもやっぱり、できれば誰のことも失わずにいたいと思うのが当然の願いである。わたしにとっては、大きな強い願い。それで家族のこととか、大切な友人のこととか考えていて、感じたことを書いている。
あまり根拠のないことを言うのだけれど、わたしの夫には生きる力がある。それは野宿ができるとか、なんでも食べられるとか、誰とでも打ち解けられるとかそういうことでもあるが、もっともっと根本的なところ。この人の温かさはずっと此処にある、と思えること。その安心感をいつ何時でも与えてくれる。好きというか、すごいなと思うところである。
人間らしい、生き物って感じがするのだ。いつもあったかくて、心臓がいつもちゃんとここにあるよ、っていう感じがする。トクン、トクン、って心臓の音が聞こえてきそうな、そういう生命力に溢れてる人間なのだ。
それってなんでなのかな?と思いながら夫を観察していた。考察として、その根源はとにかく「食」のような気がする。なんでもよく噛んで嬉しそうに食べる。熱いものはあっつあつにして、冷たいものはキンキンにして。腹八分目と満腹を使い分けながら。好きなものを好きなときに食べる。
誰かが料理したもの、誰かの育てたもの、誰かが勧めてくれたものは、いつもよりさらによく噛んで嬉しそうに食べる。そして、絶対に残さない。
前にわたしがビュッフェで残して、すごく怒られて、旅行の帰り道ずっと喧嘩したまま、という最悪の思い出もある。まあ、わたしが悪いんだけど。
とにかく、これかも知れないと思って、もう少し夫の観察を続けてみるのだけれど、きっとそうな気がする。
じじがこの世界から旅立つとき、お医者さんが言っていた。「人間はいちばん最後まで食欲が残り、死が近くなると、とうとう食べなくなって、飲まなくなって、そして力尽きるのです。」と。じじは段々水も飲まなくなって、そうして旅立った。
だからつまり、食べることはいちばん生きることに近いのかもしれない。食べることは生きること、と言っても過言ではないのかも。そう思うと、夫が生命力に溢れてることにも合点がいった。
ちゃんと食べて、ちゃんと生きよう。それで、このひとにずっと生涯、美味しいものを作ってあげよう。と思う8月の夜。
『竜ちゃんのばかやろう』を読みながら考えました。大切なひとを想う時間ってなんて幸せなのだろう。光さん、ありがとうございます。愛を込めて。