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〘異聞・阿修羅王13〙弥勒の入眠

 
 
 
 四天王と八部衆が揃ったことで、各地の押さえが整ったこともあり、須彌山(しゅみせん)は一先ず平和な時を迎えていた。無論、摩伽(まか)が正式にインドラとして立ったことも大きい。

 きかん坊な側面は否めずとも、治める手腕に問題はなく、何より決して侮られるようなこともなかった。つまり、力はそれだけ強大だと言うことである。

 唯一、周囲が気を揉んでいるのは、インドラとなった摩伽が、一向に正妃を迎えようとしないことだった。進言しても『相応しい者が現れた暁には据える』としか答えず、何だかんだと躱されており、側近としては落ち着いた実感が得られないのも当然と言える。

 逆に、須羅(しゅり)と雅楽(がら)の生活は落ち着いていた。

 果たして二人の仲が睦まじいと言えるのかは、周囲には判断が難しかったが、須羅の態度がわかりにくいことは元より周知のことである。雅楽の行き届いた振る舞い、そして、対する須羅の態度は、少なくとも二人の関係が概ね良好であると物語っていた。

「ここのところ、王が出向かれることは少のうございますね」

「そうだな。魔族の出現自体が減っているようだ。各地の見張りを増やした甲斐があったのだろう」

 とは言え、皆無ではない。魔族の数や力によっては八部衆が複数で出向くことも、四天王が出向くこともある中、ひと際、厄介と思われる案件に須羅が駆り出されることは多かった。

「はじめは、インドラ様が王にばかり押し付けていらっしゃるのではないかと……失礼なことを考えてしまいました」

「そのように見えていたのか?」

 遠慮がちに打ち明ける雅楽に、これは力の特性上、やむを得ないのだと説明した。確かに、そう考えるのも無理ないことだが、実際問題、浄化の焔を繰る須羅が適任なのは事実である。

 だが、そこに何らかの『事情』が混じっていたとしても、須羅は拒否する立場ではない。少なくとも、表向きは。何より拒否の意思自体がなく、それは須羅にとって己の存在意義のひとつだから、とも言えた。

「王に比べて、父が出向くことが少ないのは最もでございますね。ただ……」

「何ぞ、心配事でもあるのか?」

 雅楽が言い淀む。

「……平和であることは何よりでございますが、ここのところ忉利天(とうりてん)に過剰なほど気怠い空気が蔓延しているように感じます」

 雅楽が感じている違和感は、決して気のせいではなかった。そして、須羅はその理由を知ってもいた。雅楽を娶る直前に予見された『弥勒(みろく)の入眠』が近いことが原因である、と。

「心配いらぬ。それは、直に気にならなくなるであろう」

 眠りに入る前兆であり、一度(ひとたび)眠りに入ってしまえば、その違和感はいつの間にか消えることもわかっている。

「そうでございましょうか……」

「心配致すな」

 言い切る須羅に、雅楽は安心したように微笑んだ。その姿を眼(まなこ)に映しながら、弥勒が入眠した後に有り得るありとあらゆる事象が、須羅の脳内を一瞬で過って行く。

(いよいよか……)

 須羅の予想通り、それは数日の後、訪れた。

 ある夜、雅楽が部屋に入ると、須羅は窓の外──宙を眺めていた。決して珍しいことでもなかったが、月明かりに照らされたその横顔に、いつもと違う色が浮かんでいる。

「……いよいよ、満ちましたか」

 考え事であれば邪魔にならぬようにと、遠慮がちに声をかけて並ぶと、そこには弓なりの状態から見事に満ちた光が浮かんでいた。

「……見事でございますね」

「ああ……」

 その返事に、その間(ま)に、雅楽は須羅が何か言おうとしている気配を感じ取った。

「何ぞ、気にかかることがおありですか?」

 自分の方から訊ねてみるも答えはない。だが、確かに何かを伝えようとしているのを感じ、雅楽は待った。

「雅楽……」

「はい?」

 呼びかけた後、また、数瞬の間があった。それを振り払い、再度、須羅が口を開く。

「……今宵だ……」

 そのたったひと言に、雅楽が吸い込もうとした息は喉元で止まった。同時に、時の流れまでもが止まったように、雅楽には感じられた。

「…………っ…………」

 凝視した須羅の横顔の、その睫毛がゆっくりと動くと、雅楽の意識も動き始めた。一呼吸の後、宙を見上げたままの須羅に向かい、深く礼を取る。

「おまかせください」

 須羅の顔が上空から下方へと移動し、やがて、その伏目がちな視線だけが頭(こうべ)を垂れている雅楽へと向けられた。

「……頼んだぞ」

「……はい……」

 雅楽は答えた。音にならないほど小さな声だったが、視界の隅で、確かに須羅の眼が頷いたのが垣間見え、返事は受け取られたのだと理解する。

 やがて、無言の間の後に手を取られ、顔を上げた先には深い瑠璃色の瞳があった。自分を見つめている須羅の、宙を映したかのような眼には、哀切とも贖罪ともつかぬ色が浮かんでいる。

 初めて見る眼差し、そこに雅楽は、己が選んだ道は確かであった、と見出した。

 翌日、一部の者の下へ、弥勒が眠りに入った旨の通達が成された。

 そして、須彌山全域に阿修羅王の妃・雅楽が懐妊したと言う知らせが届いたのは、それからしばらく後のことである。
 
 
 
 
 

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