〘異聞・阿修羅王/結7〙弥勒の覚醒め
須彌山を包む光が
仄かになる頃
世界では日と月が
それぞれの場所で
姿を現すだろう
弥勒(みろく)の覚醒(めざ)めと共に
*
廊下の片隅で倒れていた乾闥婆(けんだっぱ)は、遠くの爆音で意識を取り戻した。
(……む……気を失っていたか。あれから如何ほど経っておる……?)
力を入れると、動けるようにはなっている。
「……くっ……」
とは言え、まだ身体の半分以上が目覚めていなかった。鉛のように重い身体を何とか持ち上げる。
(先刻の音は……いや、それよりも、阿修羅王と舎脂(しゃし)様は……)
舎脂の部屋まで数メートル、跪座で歩を進める。
「…………!」
中を見、目を疑った。
そこにあったのは、舎脂の形をし、舎脂の衣(きぬ)を纏った、ただの人形(ひとがた)だった。いや、“抜け殻”と言った方が正しい。
「……これは……」
無造作に散らばる衣にそっと触れ、瞬間、乾闥婆の記憶が解放された。
(そうか……弥勒の覚醒めか)
自分たちが闘うなど無意味だ、と言う言葉に得心がゆき、娘・雅楽(がら)を想う。
「雅楽よ……そなたは立派に役目を果たしたのだな」
感慨深げに、誇らしげに呟くと、舎脂の抜け殻を膝に乗せ、瞑目した。
*
毘沙門天(びしゃもんてん)と緊那羅(きんなら)の前で、雅楽は休むことなく奏で続けた。阿修羅と舎脂がひとつに戻ったことも、今の城内の様子も、全てわかっていた。
「そなたは、阿修羅王より聞いていたのだな? 全てを……」
「……はい……」
雅楽は目を瞑ったまま答えた。
「王はいつの世でも、必ず問われるのです。確認せずにはいられないのでしょう……」
その様子は毘沙門天にも容易に想像出来、ひとり納得する。
「雅楽。城の内部の状況がわかるか?」
瞑った眼(まなこ)の奥で、雅楽は何かを捉えようと意識をこらした。
「……城の西側……そこに、皆、集まっています。父はひとり離れておりますが。怪我を負われた方はないようです。……天と王以外は……」
「そうか」
安堵、そして、懊脳。
さしあたって、城の者たちが無事であると言うことに。結局、定められた通り課されたこと以外、何も出来ぬ不甲斐なさ、そして、やるせなさに。
「雅楽。もうひとつ、訊きたい」
「何なりと……」
「……阿修羅は……」
言いかけて、続きを飲み込む。
「いや……いい。それより、直なのだな?」
「はい。もう、間もなくにございます」
毘沙門天が頷いた。
(今さら、無事かどうかなど、直に全てが新しくなると言うに、気にするなど詮なきこと……)
心内で自嘲し、緊那羅と並んで窓の外を見上げ、静かにその時を待った。
*
吹き飛ばされた天井、崩れた壁。須羅(しゅり)の焔で赤々と照らされてはいても、宙は未だ暗かった。
烟る土煙がようやく薄れかけた中に、影がふたつ。
やや広げた脚を踏みしめ、僅かに前方に傾いで立つ須羅。
拳を微かに震わせ、仁王立ちする摩伽(まか)。
須羅は両肩口から先がなく、摩伽は両手脚の付け根と頸動脈脇を切られ、衣は朱染めのようになっている。
惰性のように、一歩、二歩と進み、真向かう距離で止まった二人は、刹那、互いを凝視し合った。ふらりと倒れかかり、互いの身体を支え合うように膝から崩れる。
「……大した力ぞ……」
荒い息の下(もと)で摩伽が洩らした。返事はなくとも、摩伽の肩口に頭(こうべ)をもたれた須羅が、あの見慣れた笑みを浮かべた様が手に取るように浮かぶ。
「須羅……思えばお前は、昔から隠し事が多かった。いつも肝心なところを言わぬ」
時の訪れ。来(きた)るべき闘いの最中(さなか)にあって記憶の大部分が解かれ、何より閃光の中で、摩伽は初めて気づいた。須羅の耳飾りに。
左の耳には阿修羅族の耳飾り、右の耳に光っているのは、破損したものの代わりにと、摩伽が舎脂に与えたそれだった。
「皆が皆、何でも言えば良いというものではなかろう。その時、その場に必要なものだけを出すが役割というものだ」
「減らず口を……」
己が求めていたはずの結末に、摩伽も皮肉で返すしかなかった。
「何故(なにゆえ)、お前の本質を育む身体が舎脂の……いや、女子(おなご)の性だったのだ?」
「私は、お前が新(さら)にした須彌山を浄化し、新たに構築せねばならぬ。そのために、女子の持つ力をも併せ持たねばならなかった」
「それで、必要とあらばどちらにでも成り得る、か……」
摩伽は、今、時が止まればいいとすら思った。だが、須彌山を統べる役目を、その責任を、放棄するなど到底出来ない。
「始めからおれは、お前の掌で転がされていたのだな。まあ、それも良いか……」
「人聞きの悪い言い方をするな」
変わらぬ物言いに安堵し、思わず口角が上がる。
「あと、如何ほどだ?」
「もう、直だ」
「……そうか……」
摩伽は腹を決めた。それでも、どうしても払拭しきれない疑問が残っている。
「だが、やはり解せぬ」
「まだ何かあるのか」
苛立ちはなくとも、呆れた口調。
「お前は何故と思う……?」
「何がだ?」
「おれが全てを知っておれば、こんな回りくどいやり方は不要のはず……さすれば、お前と袂を分かつ必要もなく、天を二分することもなかった。何故、おれに記憶の欠片すら残さぬ」
その一点に於いて、摩伽は納得が行かなかった。天ともあろうものが、この事態を見越せぬはずがない、と。であれば、これは故意であろうし、では、それは一体何のためなのか。
「……おれにはわからぬ」
須羅の答えには間があった。
それが、須羅なりの答えを探している間なのか、納得させる答えを探している間なのか、それとも、知っている真実を告げることへの躊躇いなのか、摩伽にはわからなかったが。
「……慈悲だ……」
「……何……?」
予想していなかった答えにたじろぐ。
「我らは、五十六億七千万年ごとに繰り返される弥勒の救済に合わせ、須彌山を新たにする」
「そんなことはわかっておる」
「そのたびにお前は、幾度(いくたび)も須彌山を壊さねばならぬのだ」
「だから、それがどうしたと言うのだ」
知りたいのはそんな事ではない、と言う風に語気が強まる。
「その記憶が全て、少しも褪せることなく残るのだ。一度や二度ではない。お前が心血注いで護って来た須彌山を、他ならぬ己の手で消し去る記憶が全て、だ。役目と言えど、それをどう思う? 消し去るために在る、のではなく、互いに闘神として闘い、守った故、の方がまだ良かろう」
さすがの摩伽も言葉が出なかった。耐えられぬ、とは思わずとも、微塵も辛さを感じぬか、と問われれば、それは『否』である。だが、それが『役目』と言うものなのではないか、とも思う。
「……だからと言って……」
尻すぼみになる答えに、須羅は微かに睫毛を陰らせる。
「……故に、その記憶は全て私が負うてゆく」
摩伽の眼が見開かれた。
「私は、そのためにも在るのだ」
息を止めた摩伽の胸郭が、須羅にわかるほど大きく膨らむ。
「……そうか……」
「そうだ」
摩伽は何かを堪えるように瞑目した。互いの顔は見えなくとも、様子は手に取るようにわかる。幾億年を経ようとも。
無言の二人の間を、その数十億年の過去が一瞬にして流れてゆく。
「……そろそろ行くか」
「ああ」
名残を惜しむように切り出した摩伽に、須羅が変わらぬ口調で答えた。
「……今、こうして話したことすら、おれの記憶には残らぬのだな。次に逢う時には……」
「案ずるな。代わりに私が憶えている」
「それが狡いのだと、先刻よりそう言うておるではないか」
その物言いに、二人の口角が上がる。
須羅の背後に伸ばした摩伽の手に、ヴァジュラ──金剛杵(こんごうしょ)が現れた。
「良いな?」
「構わぬ。どの道、私のこの腕ではもう無理だ」
摩伽の第三の眼が、目覚めの時を迎えたように瞼をもたげた。同時に、金剛杵が仄かな光を帯びる。
「……ひと足先に行っておるぞ」
「ああ。待っておれ。すぐに追いつく」
薄く笑んでいるだろう須羅の顔を思い浮かべ、摩伽も口角を緩めた。だが、次の瞬間には第三の眼が強烈な光を放ち、金剛杵が大剣の形に変化(へんげ)する。
それは、大剣と呼ぶにはあまりに巨大であった。光の帯のような刃(やいば)が須羅と摩伽の中心を貫き、そのまま城の床を、須彌山の地表を突き抜けて伸びてゆく。
やがて、地を穿つ大剣の鋒が核に到達した時、須羅の額に赫い光が灯った。
少しずつ大きくなってゆく光は、摩伽と須羅を諸共に飲み込み、さらに広がり続けると、いつしか須彌山全体を包み込んだ。
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