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〘異聞・阿修羅王14〙前触れ

 
 
 
 須彌山には平和な時が続いていた。

 摩伽(まか)がインドラとして立ち、須彌山(しゅみせん)を統べるようになって幾星霜。これと言って、深刻な問題は起きていない。

 周囲が気をもんでいるのは、未だ正妃不在の一点、ただそれのみである。こればかりは、幾度促しても、どのような娘を推挙しても首を縦に振ることはなく、進展しないままだった。

 一方、阿修羅王(あしゅらおう)と妃・雅楽(がら)の間には娘が産まれ、舎脂(しゃし)と名づけられた。

 成長した舎脂は、面立ちこそ母である雅楽に似ていたが背は高く、宙を映した瑠璃色の瞳は阿修羅王から受け継いでいることを物語る。また、舞にも楽にも優れ、いずれは楽師の一員として召されるであろうことも容易に想像出来た。

 比較的、親交の深い迦楼羅王(かるらおう)や夜叉王(やしゃおう)などは、舎脂ほどの娘なら、いずれはインドラの正妃として望まれるのではないか、などと冗談めかして言うこともある。

「舎脂が望むのであれば、それも良い」

 だが、阿修羅王の答えはそれだけだった。

「では、もし、我らが妻に迎えたいと言ったら、そなたどうする?」

 さらに面白可笑しく追い討ちをかけるも、返答は同じく『舎脂が良いと思わば、かまわぬ』のみ。

 しかし、そのような話の種にされているなどと、当の舎脂は知る由もなく、舞や楽、また阿修羅王の血と言うべきか、剣の扱いにも興味を示し、日々、修練を欠かさずにいる。家人は怪我でもしたら、と心配していたが、意外にも雅楽は否定的ではなかった。

「そなたより強くなりそうな娘御だな」

 迦楼羅王の言葉に夜叉王は吹き出し、阿修羅王は微かに口元を緩めた。

「冗談はさておき、実際のところ、インドラ様に求められた時には、本当に嫁がせるつもりはあるのか?」

 迦楼羅王は真剣な面持ちで問うた。やや、睫毛を翳らせている阿修羅王の横顔に変化はない。だが、そうと認識出来るほどの僅かな間(ま)、はあった。

「かまわぬ」

 それでも、返答に変化はなく、迦楼羅王と夜叉王は顔を見合わせた。

「そなた……インドラ様との間に何があった?」

 躊躇いがちに迦楼羅王が切り出す。

「何か、とは?」

「それを、こちらが訊いておるのだぞ」

 にべもない答えに、今度は夜叉王が口を挟んだ。そんな夜叉王を迦楼羅王が押さえる。

「昨日今日のことを言うておるのではない。昔……そう、娘御が産まれる前……いや、そなたが雅楽殿を娶る前やも知れぬ。何かあったのだろう?」

 阿修羅王はようやっと、ふたりの方を向いた。夜叉王の様子から、摩伽がインドラとなる前に、阿修羅王を訪ねて来ていたことなどを話したのだと察する。

「……何かあったとて、そのようなこと、私がいちいち記憶に留めてどうすると言うのだ? あの利かん気は今に始まったことではないし、恐らく、幾度、繰り返したとて変わるものでもないのだぞ?」

「それは……だが、だからと言って……」

 言い淀む夜叉王の隣で、迦楼羅王は真っ直ぐに阿修羅王の眼を見つめた。

「阿修羅よ……人から見れば永久(とこしえ)の時を渡るに見えるであろう我らだが、実際には代替わりを繰り返す。何度、代替わりしようと、必要な記憶を全て引き継ぐ限り、我らは我らだ」

「……それが?」

「無論、それは、時として親から子に譲り受けると似た形になることもある。だが、それは肉体の劣化に、どうあっても持ち直しが利かない場合のみで、それでも記憶は再生される」

 静かに、一人語りのように語る迦楼羅王の声に、阿修羅王はただ耳を傾けている。

「……そなた、我らの知らぬ、何を知っておる?」

 阿修羅王の表情は変わらなかった。それどころか、眉ひとつ微動の気配すらない。

「……私は、阿修羅王として識り得る……識らねばならぬ記憶は全て持っておる。逆に言えば、その他には何も持っておらぬ」

 それは本当なのだろうと、迦楼羅王は思った。だが、自分たちが求めている答えとして十分ではない、とも思う。

「……ひとつだけ言うておくが……我らは八人揃ってこそ、八部衆だ。どれほどそなたに、我らの計り知れぬ役目があろうとも、それだけは変わらぬ。なればこそ、何かを成そうとした時、そなたは一人ではないと知れ」

 言い放つ迦楼羅王と、黙って耳を傾ける阿修羅王を、夜叉王は息を潜めて交互に見つめる。

「……憶えておこう」

 ほんの刹那、答えた阿修羅王と視線を交え、迦楼羅王は踵を返した。夜叉王が慌てて続く。

 去る二人の方を見つめながらも、阿修羅王の眼は別の何かを映しているようだった。

「……だが、迦楼羅よ……必要ないもの……妨げになるもの、は……留まらぬ……いや、留まってはならぬのだ……」

 吹き抜けて行く風にでも聞かせるようにつぶやく。

「我らの間に何があったか、と問うたな。……何もない。何か起こるはこれからで、全て、その結末のさらに先に行き着くための前触れに過ぎぬ……」

 ひとり語った阿修羅王は、邸に戻るべく踵を返した。

 阿修羅王が、迦楼羅王と夜叉王の来訪を受けたと同じ頃、城では毘沙門天(びしゃもんてん)ら四天王を援護に連れた側近が数名、インドラの下を訪れていた。
 
 
 
 

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