〘異聞・阿修羅王28〙予見2
その日、インドラに呼ばれた毘沙門天(びしゃもんてん)は、ひとり善見城(ぜんけんじょう)を訪れた。
今まで以上に、魔族の穴の出現に注意すること、増えている地鳴りで人界に大きな被害が生じぬよう気を配ること、などを命じられ、退室した時である。
「……多聞(たもん)様……?」
普段、呼ばれることのない名で呼ばれ、毘沙門天の足が止まった。振り返ったそこには、驚いた顔の舎脂(しゃし)が立っている。
「これは……舎脂様……」
跪拝した毘沙門天に合わせるように、舎脂は自らも屈んだ。
「いけませぬ、舎脂様……! 私などの前で膝を折るなど……他の者に見られたら何と致しまする……!」
昔はどうあれ、今、舎脂はインドラの正妃である。この忉利天、ひいては須彌山で、舎脂が膝を折らねばならぬ相手はただ一人しかいない。
「……ここで誰が見咎めると仰るのです」
だが、毘沙門天の手を押さえ、舎脂は寂しげに微笑んだ。
「お珍しいですね……多聞様お一人とは。今日は、お三方はご一緒ではないのですか?」
毘沙門天に直接呼びかける時に限り、舎脂は彼を『多聞天』の名で呼んだ。他の者の前では、決してその名を出すことはない。
「皆、今、各地に増えている『穴』の見回りに出ておりまして……」
「ああ、このところ、増えていると聞き及んでおります。しかも、それは、この須彌山ばかりではないとか……」
舎脂の顔に陰が浮かぶ。
「はい。人界での被害が増えぬよう、見張りを強化するように、とのお達しでした。それと、最近、地鳴りも増えておりますので……」
「何か、良からぬことの前触れなのでしょうか……」
舎脂の表情が目に見えて憂いを帯び、毘沙門天は余計なことを言ってしまったと後悔した。ただでさえ、彼は舎脂に対して負い目がある。その負い目は、一方的に感じているだけのものなのだが、彼を捕え、決して離すことはなかった。
「申し訳ありませぬ。つまらぬことを申し上げました。舎脂様がご心配されるには及びませぬ。そのためにインドラ様が目を配り、我らを配置されておられるのですから……」
深く礼を取り、毘沙門天は立ち上がった。
「……どうか、お心安らかに……」
そう言って踵を返した時、不意に毘沙門天は背中に懐かしい気配を感じた。
「……っ!?」
振り返ったそこには、無論、舎脂が立っているだけである。だが、その舎脂が纏う空気が、毘沙門天に懐かしい友人──少なくとも彼はそう思っていた──のそれと酷似していた。
「多聞様……」
立ち尽くす毘沙門天に、舎脂は宙(そら)を映した眼(まなこ)を煌めかせ、脳に直接響くような声で語りかける。
「……誰のせいでもありませぬ。全ては、運命(さだめ)にございます」
その声も、遠い友人のそれを思い起こさせた。同時に、かつて己に向けられた言葉をも呼び起こさせる。
──『お前たちの責任ぞ』──
正反対のそれに、どこか、同じものを感じる矛盾。
(……これも血か……恐ろしいものよ……)
感慨深げに、もう一度深く一礼し、毘沙門天は今度こそ善見城を後にした。
*
舎脂が室に入ると、インドラは長椅子に身を預け、何か思い耽っているようだった。
「毘沙門天に会(お)うたか?」
邪魔になるかと逡巡する間もなく、傍近く寄るよう手で合図される。
「はい、お会い致しました。珍しく、お一人でしたが……何ぞ、お困りごとでもございましたか?」
「いや……」
差し出された手に己の手を預けると、一気に引き寄せられ、膝の上に抱えられた。
「……あやつのことだ。不意にそなたと顔を合わせて、どうしたかと思うてな」
そう言うと、再び視線を浮遊させる。
「……意地のお悪いことを……」
「フッ……」
毘沙門天が感じている負い目に、インドラは気づいていた。
実のところ、舎脂も気づいてはいる。何しろ、それもこれも、元はと言えばインドラのせいであって、気づかぬはずもなかった。無論、舎脂は口にせず留めてはいたが。
「……本当は何がおありなのです?」
インドラの膝の上で、舎脂は彼の身体の筋肉が張り詰めていることに気づいていた。魔族や地鳴りのことだけであるはずがない。これほど長く傍近くにいれば、その程度のことで動じるようなインドラでないことくらいはわかる。
「何故(なにゆえ)、そう思う?」
口角を上げるインドラは、まるで問答を楽しむかのようだった。考え過ぎだったかと可笑しさ半分、呆れ半分で舎脂の方が苦笑する。
「……ご自分から、お話しなさりたいのでしょう?」
だが、予想に反し、インドラの表情はこれ以上ないほどに引き締まった。何事かと凝視した舎脂は、同時に腰に回された指に力がこもったのを感じる。
「……来るぞ……」
返事は唐突で端的だった。
「……は……?」
遠い目で告げる、雄々しくも端正な横顔を見つめる。
「遠からず、参るであろう……また、そなたの父が……」
舎脂は息を飲んだ。
「何故、おわかりになるのです?」
その答えまでには、不思議な間があった。
「……さてな。だが、おれにはわかる……それだけだ」
舎脂を抱えたまま、インドラが黙り込む。だが、インドラの言葉に間違いはないであろう、と感じたのも事実だった。
乾闥婆王(けんだっぱおう)たちが交わした会話など知るはずもなく、それでも何か大きなものが近づいていることだけは、二人の中にも確かな予感としてあった。