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〘異聞・阿修羅王20〙断絶
その形相に、兵たちは文字通り震え上がった。
「貴様……それで黙って引き下がって来おったのか……?」
巻き上がる風に髪と衣を煽られ、宇宙を映した眼(まなこ)の周囲は血で烟ったように朱く染まる。
「ようも、それで四天王筆頭など名乗れるものだな」
その姿はまさに、かつて『魔人』とも謳われた鬼神・阿修羅王そのものだった。
「言葉が過ぎるぞ、阿修羅王!」
「間違いを正すも、その方らの役目であろうが! 怠った者に何を言う資格があるか!」
広目天(こうもくてん)が叱責するも、逆に返り討ちに遭う。
「勝手に連れ去った挙句、正妃に処す、故に、それで納得しろ、とは、貴様らはそれを聞いて何とも思わぬか? 天の命(めい)と喜べると申すか?」
反論の余地はなく、宥める言葉を考える暇(いとま)すら握り潰されたようなものだった。当然、誰ひとり返答出来ず、目を逸らすように俯く様を見、阿修羅の眉が更に吊り上がる。
「答えよ!」
空気を震わせる声に、
「やめよ!」
堪りかねた毘沙門天が声を上げた。
「……他の者を責めるな。本当はお前にもわかっていよう。誰が止められる訳もないことを……」
──ただ、ひとりを除いて──
そのひと言を、毘沙門天は飲み込んだ。インドラを留めるべき立場にありながら、出来なかったことは事実であったが故に。
「……それが、お前の答えなのだな?」
それでも、敢えて訊ねられると言葉に詰まり、握りしめた拳が震える。既に策も詰み、今更どうすることも叶わぬとわかっていて、それでも不本意には違いなかった。
「……よう、わかった」
不意に、渦巻いていた風が途切れた。地を蹴り馬に跨った阿修羅が、冷ややかな、だが燃える朱眼で一同を見下ろす。
「このままでは済まさぬ……!」
吐き捨てるように言うと、止める間もなく彼方へ去った。
「毘沙門天様……」
最初に声を発したのは迦楼羅(かるら)であった。夜叉(やしゃ)も物言いたげな眼を向けている。
「……すまぬ。そなたらに仲立ちを頼むつもりでおった矢先、まさか、このようなことになるとは……」
周囲の者たちには、話の筋が読み取れなかったが、迦楼羅と夜叉は密かに頼み事をされていた。
いつまでも正妃を立てないインドラに痺れを切らし、毘沙門天は阿修羅の娘、即ち舎脂に白羽の矢を立て、正式な手順を踏んで申し入れる手筈を整えていた。その仲立ちを、阿修羅と比較的親交のある迦楼羅と夜叉に任せるつもりでいたのだ。
「……遅かった……全てが。天が割れることは、もはや避けられぬ……!」
絶望の滲む声に、四天王も八部衆もかける言葉はなく、重苦しい空気が周囲を覆った。
*
阿修羅が邸に戻ると、申し付けられた通り、雅楽(がら)は全ての門を閉ざしていた。
「王がお戻りになられました!」
飛び込んで来た声を合図とし、家人(けにん)一同がざわめいた。少しして姿を現した阿修羅の前に、一斉に跪く。
「奥方様の御前ぞ! 場を空けよ!」
雅楽は女主として、ひとつ部屋に家人を集め、静かに控えていた。割れた隙間を通り抜け、阿修羅の眼前に跪拝する。
「王……」
視線を交えた二人に、周囲の者たちが呼吸を潜めた。緊張が走り、空気までが張り詰める。
「……そなたの想像通りだ」
何も訊こうとしない彼女に、阿修羅は一呼吸置いて答えた。
「……では……」
睫毛を翳らせ、下を向いた雅楽の喉が締まる様を見、手に取るように表情がわかった。瞬きすら、止まっているであろうことも。
「……私がこれから申すこと、落ち着いて聞いてくれ。各地にいる者にも、急ぎ伝えねばならぬ」
「王……」
集まる者たちを見回す阿修羅に、雅楽が控えめに呼びかけた。
「如何した?」
「皆、既に呼び寄せてございます」
「何……!?」
先を見越していた雅楽に、さすがの阿修羅も驚きを隠せなかった。
「あちらに……」
雅楽が指し示した窓に目を向ける。
「全員、揃っております。羅刹(らせつ)殿にお願いして、急ぎ、集めて戴いたのです」
羅刹は阿修羅の右腕として、役目を担う者だった。時として、影として振る舞うこともある。
跪いた羅刹が頷くと、雅楽は静かに窓に近づいた。阿修羅を誘い、押し開くとざわめきが聞こえる。
「王!」
「阿修羅王!」
姿を現した阿修羅に、高揚する声が上がった。口々に名を呼ぶ声が重なり合い、更なる歓声を生む。
「何と……」
『全て呼び寄せてある』と言う言葉通り、広大な敷地内は跪拝する者で埋め尽くされていた。遥か際まで人影が連なり、もはや地面が見えない。
「どうぞ、お言葉を。我らは如何なる時も、王のご意志に従いまする」
静かに、だが強さを秘めた雅楽の言葉。小さく頷いた阿修羅が前に進み出ると、水が凪いだように静まり返る。
「皆、良く聞け! 我が娘・舎脂は、正当な申し入れもなく、此度、不当にインドラの下に召された」
波立つように一斉にどよめき、場は一気に過熱した。
「このまま正妃として遇する、などと面映ゆい。我が下に、一旦、返す気すらないと見做し……」
全員が固唾を飲み、次の言葉を待つ。
「今宵、我はインドラと命運を分かつ!」
動揺はなく、黙したまま聞いていた者たちが一斉に立ち上がった。足を踏み鳴らし、鬨の声を上げる。
「王! 王!」
「我ら一族はどこまでも王と共に!」
「舎脂様を必ず王の下へ!」
*
須彌山全土を巻き込む、長い長い闘いの始まりであった。