〘異聞・阿修羅王30〙雅楽
月が翳った刻。
「…………!」
暗闇の中で、突然インドラは目を開けた。
天井を凝視した眼(まなこ)が、何かを確認するように、様子を窺うように、やがてゆっくりと四方を巡り出す。
「…………」
しばらくすると、舎脂(しゃし)を起こさぬよう、そっと腕を離し、静かに寝台から立ち上がった。
「……何ぞ、ございましたか……?」
振り向くと、半身を起こした舎脂が不安気な表情を浮かべている。
「大事ない。そなたは今しばらく寝ていよ」
そう言って、インドラは寝所を後にした。
「…………」
インドラが去った方を、舎脂が凝視する。
やがて、何かに掻き立てられるように起き上がり、自身も追うように寝所を後にした。
*
阿修羅を見送った雅楽(がら)は、残った家人たちと共に敷地内の痕跡を全て消し去った。
「では、奥方様。我らは王のご指示通りに……」
人界との境界線近くひっそりと建つ邸跡で、家人たちは雅楽に跪拝した。
「上方は羅刹(らせつ)殿たちが、万事、整えてくれているはず……状況は絶えず伝えます故……」
「は……お任せを……奥方様もお気をつけくださいませ」
そう言い残し、彼らはすぐ四方に散って行った。
「頼みましたぞ……」
見送りながら呟き、一人になった雅楽は竪琴に向かった。そうしていることによって思考が澄み渡り、遥か昔の記憶でさえ明瞭になってゆく。
(王のお傍近く侍り、どれほどの時が過ぎたのだろう。わたくしと話すためだけに、王が来てくださったあの日から……)
この時、雅楽の奏でる旋律の一番の役割は、その音色を以て様々なことを一族に伝達するためのものだった。もちろん、それだけではない。託された役目は彼女にしか出来ないことであり、要(かなめ)と言っても過言ではなかった。
『私は、何度も違う私となる。私であって、私でない者に。そして、いつの日にか、私となるために、そなたを使わねばならぬ。そなたを娶ると言うことは、そなたを利用すると同義だ。それでも……』
(あの時、王はそう言われた……)
その言葉の意味するところを、雅楽は訊ねなかった。
例えどんなことであれ、受け入れる覚悟は決まっていたし、それが己の運命(さだめ)であると理解していたのもある。何より、決心を鈍らせないために敢えて聞くまい、とも。だが、同時に、阿修羅の思うところが手に取るようにも理解出来た。
(いつも王は、そのことに負い目を持たれていた。わたくしは決して不幸せなどではなかったのに、どうお伝えしてもお心から贖罪の気持ちが消えることはなかった……それだけが申し訳ない)
今生の別れ、と言うのではない。人のように生き死にする訳でもなく、死んで肉体が朽ちる訳でもない。
ただ、もう、須彌山の邸にも、隠れ住まったこの邸にも戻ることはなく、ここで阿修羅や舎脂と過ごすこともない──そのことが、人の生死や別れと何が違うのか、雅楽はそこをこそ本当は知りたかった。
(考えても致し方ない……今は、わたくしもわたくしの役目を果たさなければ……)
雅楽の奏でる音(ね)は、須彌山に、そして人界にも、染み入るように広がって行った。
*
「羅刹、後は任せた。出来る限り、見つからぬように……手筈通り頼んだぞ」
須彌山の山頂に近づくと、阿修羅はすぐ脇に控えている羅刹に命じた。
「……御意。必ずや、雅楽様と我らで……」
「うむ」
力強く頷き、阿修羅は軍勢から飛び出した。
「王こそ、どうぞご武運を……!」
ひとり言のような羅刹の声は、それでも阿修羅の耳に届いた。それが、雅楽の奏でる──須彌山と人界を包む──音色の恩恵のひとつでもあった。
「我らもゆくぞ!」
微かに振り向いて頷く主を認め、羅刹は羅刹で、自らも役目を果たすべく動いた。
*
ひとり善見城に向かった阿修羅は、眼前に迫るそれを見上げた。
「む……」
そして、近づいて来る気配に、一層、表情が引き締まる。
「そこか……」
阿修羅たちが近づいていることは、善見城はおろか、忉利天全体に於いても気づいている者はなかった。今までのような目立つ動きをしていないこともあるが、それだけで気づかぬはずはない。
(さすがだな、雅楽)
口元に不敵な笑みを浮かべ、阿修羅は善見城の最奥に降り立った。静まり返った城内で、まるで目指す場所がどこであるかわかっているように、淀みなく歩を進める。
「……やはり、そなたは気づいたか」
ふと足を止めた阿修羅が、誰もいない回廊に向かって言い放った。返事はない。
「出て来られよ」
しばし待ち、もう一度、呼びかける。
「そこにいるのはわかっておるのだ……乾闥婆王(けんだっぱおう)……」
柱の向こうで影が揺れ、乾闥婆王が姿を現した。
「……久方ぶりだな……阿修羅王……」
静かに、だが威厳ある佇まいで立ちはだかる。
「……雅楽が珍しい音(ね)を奏でておった故、胸騒ぎを覚えて参じてみれば……」
乾闥婆王の表情には、どんな感情の波もなかった。それは阿修羅の方も同様であったが、二人共に、避け得ぬ何か──運命はわかっていた。
「私ではそなたの相手にならぬことなど、十分にわかっておる。しかし、このまますんなり通す訳にはゆかぬ……!」
楽師であれど、八部衆であることが守護者たる証。
「……舎脂様の元へは行かせぬ……!」
雅楽の輿入れ以来幾星霜、二人は静かに向かい合った。