〘異聞・阿修羅王21〙阿修羅族の娘
毘沙門天(びしゃもんてん)が去った後、インドラは何かを考えるように黙り込んでいた。だが、その口角は、何かを期待するかのように薄らと上がっている。
「……何故(なにゆえ)、あのようなことを仰ったのです?」
不意に聞こえた声。いつの間にか傍にいた声の主に、インドラの意識は引き戻された。
「あのような、とは?」
半分は惚け、半分は本心からの疑問である。
「あの仰りようでは、より以上の誤解を招きます」
「誤解など招きようもない。事実を伝えたまで……他にどう伝えようもない」
舎脂(しゃし)が眉をひそめた。
「何も仰らず、ただ、わたくしを毘沙門天様に引き渡せば済んだことにございます。なのに、どうしてあのように毘沙門天様を傷つけ、煽るようなことを?」
「ならば、そなたこそ、何故、助けを求めなかったのだ? 毘沙門天にひと言でも助けを求めれば、あやつのことだ……何としても、そなたを阿修羅の下に連れて行ったであろうに」
間髪入れずに返しながら、インドラは舎脂をまじまじと見つめた。
ぱっと見の面立ちは母似だが、ふとした表情の作り方、何よりその瞳の色合いが阿修羅を彷彿とさせる。何より、その身に纏う雰囲気が。
「……知りたかったのです。何故、貴方様が、わたくしをここにお連れになったのかを……」
一瞬、目を丸くしたインドラは、次いで如何にも可笑しそうに笑い出した。
「何を言い出すかと思えば……決まりきっているではないか。そのようなこともわからぬと申すか?」
「わかりませぬ。貴方様のお心の内など……」
インドラの楽しげな笑いは、一瞬で意地の悪そうな笑みに変わった。手を掴んで引き寄せると、小ぶりな顎を掬い上げる。
「……わからぬはずはなかろう……?」
「それが貴方様のご本心とは思いませぬ」
それでも変わらぬ真っ直ぐな視線に、インドラの口元から笑みが消えた。
「……ふむ。何故、そう思うのか訊く前に、そなた、何故、おれをそのように呼ぶ? おれにも名があるのだぞ……舎脂?」
言葉の変化に、もちろん舎脂は気づいた。それが意図的なものと言うより無意識に近く、むしろ、そちらがインドラの素であることにも。
「……わたくしは正式な楽師の一員でもなく、未だ役目を持たぬ身です。恐れ多くも、天の御名を直答でお呼びするなど、許された身ではありませぬ」
目を見開いたインドラは、先刻よりも盛大に笑い出した。
「面白い娘だ。なれば、おれがそなたを正妃にしたことを何と心得る? 立場と言うのであらば、それで十分であろう?」
「貴方様が、この場で申されただけのことにございます。いくら毘沙門天様の御前とは言え、非礼によって撤回、と言われれば、それで通ってしまいましょう」
間近にインドラの顔があっても、動じることなく言い放つ舎脂を、興味深げに見つめる。
「なるほど……そうか……では、おれのことは『摩伽(まか)』とでも呼べ」
「……摩伽……様……?」
「今となっては、誰も呼ばぬ名だ。であれば良かろう」
インドラの目に、どこか懐かしげな、切なげな影が過るのを舎脂は見た。不思議に思ったのも束の間、本心を明かさぬまま、インドラの手が舎脂を解放する。
「では、話を戻すが……何故、そなたが欲しくて連れ来たと思わぬ?」
肘をつき、寛いだ姿勢でインドラが仕切り直した。興味津々、と言った体に隠された本心を感じ、舎脂には連れて来られた理由が益々わからなくなる。
「……あの時、貴方様……摩伽様、は、わたくしのことなど見ていなかったからです」
故に、探るべく切り出す。
「ほう?」
舎脂の答えが興を引き、インドラは手で支えていた頭を浮かせた。
「わたくしなど通り越して、わたくしではない何か、を、見ておられました」
インドラの表情に変化はなく、ほんの微かに反応した眉に、舎脂が気づくことはなかった。
「それに、わたくしをお気に召したと仰りながら、特に無体を強いることはなく、かと思えば、返すでなく留めておられます。でも、もし、あの場で、わたくしが毘沙門天様に縋っていたとしても、きっと摩伽様はお止めにも、お咎めにもならなかったのではないか、とも……思うております」
黙って聞きながら、インドラは小さく頷いて先を促す。
「わたくしではなく、けれど、わたくしに関わりのある何か、が本当の理由だとしか思えませぬ」
「話はわかった」
ゆっくりと身体を起こし、インドラは見透かすように舎脂を覗き込んだ。
「その程度のことを知りたいがために、逃げる千載一遇の機会を過ごすとは……馬鹿な娘だ。もっとも、そこが興味深いとも言えるのだろうが」
舎脂は答えなかった。ただ、インドラのひと言ひと言、言葉や声の調子から、少しでも内心を読み取ろうとしていた。
「とは言え、そなたは少し、おれを甘く評価しておるぞ」
「左様でございましょうか……?」
「もし、そなたが本当に逃げていたなら、おれはそなた自身を反逆者と見做し、それに見合うた処罰を下しておる」
躊躇いなく放たれたそのひと言は、到底本心とは思えなかった。
だが、それが本心であれば理不尽さが上塗りされ、そうでなかったとしても、舎脂にとっては別の意味を想起させる言葉であることは確かだった。