
〘異聞・阿修羅王2〙須彌山の摩伽
不承不承、己の邸に戻った摩伽(まか)は、阿修羅族について情報を得るべく動いた。
「阿修羅族について詳しい者を寄こせ」
申し付けられた者は一瞬躊躇した。
散々、小言を並べた直後である。いつもなら顔を見ようともしなくなるところなのに、と訝しむも、すぐに礼をして下がった。
「やれやれ、口うるさいことだ……」
さっさと相手を下がらせ、ようやっとひとりになった部屋で、摩伽は今しがたのことにどっぷりと記憶を漂わせた。
(あの者はこのおれを、初動もなく払い飛ばしたのだ。一族の中でも、かなり力のある者に違いない)
隙のない立ち居振る舞い、無駄のない動き、そして何よりも華奢な身体から立ち昇る圧倒的な威圧感。もっと正確には、それは存在感と言うべきものだった、と思い当たる。一挙手一投足が、まるで瞼に焼き付いたように離れない感覚は、摩伽の中に新たな何かを呼び起こしていた。
歓びとも怒りともつかない、ただひたすらに身の内が震えるほどの高揚感──軍神としての定めを負った摩伽にとって、己と対等に渡り合えるかも知れない存在との初めての出逢い。
(逢いたい。今一度、あやつと向き合ってみたい)
願望より、むしろ、渇望と言った方が正しい。
『摩伽さま』
気配を感じると同時に、部屋の外から声が聞こえた。
『お呼びと伺いましたが?』
その問いかけで、先ほど申し付けた者が寄越したのだと気づく。
「入れ」
現れたのは乾闥婆(けんだっぱ)であった。鬼神八部衆のひとりである乾闥婆は、四天王のひとりである東方守護者・持国天(じこくてん)の下にいる。
「阿修羅族について、とのことでしたが……一体、何をお知りになりたいのです?」
摩伽は顎に指を当て、乾闥婆を見上げる。
「あれはどのような一族なのだ?」
抽象的な質問に、乾闥婆が一瞬返事に詰まった。
「……阿修羅族の王たるは、陽を負い、闘うことで護る者……故に、負けはありません。敗北することは許されぬ者なのです」
少し考える様子を見せ、言葉を選ぶように説明する乾闥婆に、摩伽が露骨に首をひねる。
「……負けが許されぬ、だと……? それでは、奴らがこの世で最強ということになってしまうではないか」
その理論を成立させるならば、軍神である摩伽をも凌駕する存在であり、理(ことわり)に矛盾する現象が起きることになる。
「奴ら……? 摩伽さま。もしや、阿修羅族の者と会われたのですか?」
つい、摩伽が口を滑らせたのを、乾闥婆は聞き逃さなかった。面白くなさそうな表情を浮かべ、摩伽が顔を背ける。
「……阿修羅王……なのかはわからん。奴は阿修羅族の者としか名乗らなかった。このおれが名乗っても礼すら取らぬ有様だ」
「もし、その者が、私の考えている者ならば、ですが……阿修羅王と名乗らなかったと言うなら、それはそうでしょう。代替わりの最中故、次代の王となるべき者はおりますが、今、この段階では正式な阿修羅王は存在しておりませぬ故」
不思議なことを告げる乾闥婆に、摩伽は背けていた視線を戻した。
「存在しておらぬだと?」
「はい。正式には、でございますが。貴方様が正式に善見城(ぜんけんじょう)の主となられる暁には、三十三天の一天として阿修羅王を名乗ることになりましょう。むろん、私には、摩伽さまが遭遇した相手が次代の阿修羅王であるかはわかりかねますが……」
「男か女かわからんような形(なり)をしていた。細っこくて華奢でありながら、このおれを一撃で払い飛ばすほどの強力(ごうりき)……」
乾闥婆の口角がごく僅かに動いた。摩伽が気づかぬほど微かな動きであったが、それは確かに笑みである。
「……であれば、恐らく次代の阿修羅王に間違いないでしょう」
「阿修羅王とは闘神であろうが。先代の阿修羅王もあのような姿だったのか?」
強さに於いて、心のどこかで納得はしていた。むしろ、あれが阿修羅王であって欲しいとさえ。だが、自分より遥かに華奢な姿の相手に、簡単にあしらわれた事実。それが、『阿修羅王』を認めようとする心情を押し留め、乾闥婆が即答したにも関わらず念を押させる。
「貴方様がそうであられるように、阿修羅族の王もどちらにもなり得ます故……いや、むしろ、貴方様とは逆の意味で、どちらでもなく、また、どちらでもある……それが阿修羅族の王たる証……」
「……待て。何故、闘神である者が、そのような特性を必要とする? 負けを許されぬ闘神……強さを象徴するが主であろう? 誰よりも強き存在で須彌山を……ひいては、このおれの世を守護するのではないのか?」
「貴方様より強き存在などありえませぬ。しかしながら……」
話の途中で摩伽は眉をしかめた。
「であれば! そこには矛盾が生じるであろうが!」
「……阿修羅王の強さはそれとは違います。そう……阿修羅王にとっての『勝ち』はねじ伏せるものだけを指す訳ではありませぬ故……」
苛立つ摩伽に動じることなく、乾闥婆は答えた。その冷静さに、摩伽も語気を静める。
「どういうことだ?」
「阿修羅王は業火によって悪しきものを焼き尽くします。が、阿修羅王の放つその炎は、業火であるが故に浄化の作用をもたらす……つまり、善に転換出来ぬものを一旦焼き尽くして滅し、浄化し、再び清らかなものとして世に生み出す……送り返すのです」
摩伽は息を飲んだ。
「……だからこそ、どちらでもなく、どちらでもあらねばならぬのです。浄化したものを、新たに生み出す性をも持ち合わせていなければならぬ定め故に……」
摩伽からの反応はなく、何かを己の中で咀嚼しようとしているのを感じた乾闥婆は、一礼して立ち去ろうとした。だが、部屋を出ようとした時、ふと思い出したように足を止め、僅かに摩伽を振り返った。
「……ああ、私は阿修羅王が正式に継承した暁には、我が娘を娶ってもらうつもりにございます」
「…………!」
それだけ告げると、乾闥婆は静かに立ち去った。
摩伽の内に生じた複雑な感情の気配に、薄らと気づきながら。