〘異聞・阿修羅王32〙夢の続き
寝所を出たインドラは、何かに導かれるように謁見の間に向かっていた。
「む……?」
入り口に佇む影を認める。
「……乾闥婆(けんだっぱ)か……?」
「……インドラ様……!?」
呼びかけられ、乾闥婆の方が驚きに目を見張った。
「如何した? 今時分にこのようなところで……」
「インドラ様こそ……」
控えた乾闥婆を見下ろしたものの、すぐに視線を謁見の間に移す。
「……恐らく、そなたと同じぞ……」
息を飲んだ乾闥婆は、覚悟を決めたように拳を握った。
「……お伝えしておきたきことがござります」
「……聞こう」
室内に足を向け、インドラが応じる。
「インドラ様には、この音(ね)が聞こえておられるのですね?」
「……恐らく、そなたが申しているのと同じ音であろうが……何かはわからぬ」
片肘をつき、頭部を支えたインドラの眼前に、乾闥婆が跪拝した。
「畏れながら申し上げまする。この音は、我が娘・雅楽(がら)の奏でるもの……阿修羅族への伝達としているのは間違いござりませぬ。私めにも、内容までは読み取れませぬが……」
「ふむ……」
表情を見る限り、インドラにはさしたる動揺も驚きもないようだった。
「大したものだな……そなたの娘は……」
むしろ、面白い話でも聞いたかのように、口元に笑みが浮かんでいる。
「……これは私の推測でしかございませぬが、雅楽まで動いている、と言うことは、阿修羅族は総出で行動を起こしているはず……ですが、阿修羅王以外の者には、特に注意を払う必要はないかと……」
「何故(なにゆえ)、そう思う?」
「そこをこそ、雅楽が介入しているからにございます」
インドラの表情に、今度は疑問の色が浮かんだ。
「……阿修羅王が、闘いそのものに娘を巻き込むとは思えませぬ。恐らく此度は単独で動いておるはず……」
「ふむ……一理あるな」
ある意味、二人は阿修羅王の性格を良く知っていた。何があろうと、雅楽を戦闘に巻き込んだりはせぬ、と。
「……それと、今ひとつ、お伝えしておきたきことが……」
珍しく躊躇う乾闥婆を、インドラは無言で促した。
*
公の謁見の間の奥に、私室に近い、私の謁見場所があった。特に近しい者だけが、立ち入ること、即ち、そこでの謁見を許されるのだ。
その室で、今、インドラはひとり座していた。
乾闥婆との話の後、ずっとそうしており、数刻前より、側近の者たちが入れ代わり立ち代わりやって来ては様々な報告をしている。地鳴りの頻度が増していること、その揺れの規模が大きくなっていること、そして、阿修羅族の者が目撃されたこと、などである。
インドラは耳を傾けはするものの、返事と言えるほどの反応はなく、ただ頷くだけだった。何を聞こうと、その眼(まなこ)が揺らぐことはなく、宿るものを見極められる者もない。
「……ほう。毘沙門天(びしゃもんてん)が足止めを食ろうておるな……」
誰にともなく呟いた時、バタバタと走り寄って来る足音があった。
「イ、インドラ様……! 城が……城の周囲が炎に阻まれておりまする……!」
慌てふためいた側近の声は、既に悲鳴に近い。
(……ほう。城の動きを押さえたか。確かにこれでは、毘沙門天(びしゃもんてん)も動きが取れまい。修羅の劫火が相手ではな……)
幾度(いくたび)もの闘いの中で、これは初めてのことだった。だが、それでも、インドラに微塵の動揺もあるはずがない。
「放っておけ。無理に城を出入りしようとさえしなくば、案ずることはない」
「し、しかし……」
「おとなしくしておれば、そなたらに害はなかろう。一番遠い間に皆を集め、待機せよ」
自信に満ちたインドラの言葉に、不安気ながらも頷いた側近を下がらせた。
(毎回、毎回、手を変えて来るものよ。だが、このような動きは初めて見る……おれに勝てぬと覚悟を決め、いよいよ捨て身で来たか……?)
そう考えながらも、そんなことがあるはずない、とも思う。“あの”阿修羅王が、そのような策に出るはずはない、と。
「……何を狙っておる……?」
警戒しながらも、そこをこそ知りたくて堪らない心情は、他の者に理解しろと言っても無理であった。また、先刻、乾闥婆から伝えられたことも、そこに更なる拍車をかけている。
「む……?」
様々に思いを巡らせていたインドラは、近づいて来る気配を察知した。無論、側近たちのものではない。どこか懐かしさを含みながらも、何故かひどく馴染みがあるそれを、むしろ訝しむ。
(何だ、これは……? 阿修羅王、に違いない。だが……)
逡巡の内に間近に迫った気配が、巡る思考を分断させた。
「……来たか……」
静かな足音が響く。
公の謁見の間を通り抜け、まるで我が物のように向かって来る足音が。
「此度は、真実、我らのみの闘いと言うことか……いや、そうではあるまい。皆が刃を振るっておらずとも、お主らが動いた時点で、既に闘いは始まっておった。これは、すべからく、闘いの続きに過ぎぬ……」
まるで、夢の続きを見ているように、前回、面(つら)を合わせた時の記憶が繋がる。
「……のう? 阿修羅王よ……」
やがて、カツーンと通る一音がし、足音は止まった。足音の主を見遣ると、互いの視線が交じり合い、傍目には見えぬ閃光がぶつかり合う。
二人にとって数千年ぶり、何百・何千回目かの対峙だった。
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