〘異聞・グリース2〙デメテルの後悔
わかっていながら
頑なに
気づかぬふりをしていた貴方
知っているから
決して
こちらを向こうとしなかった貴方
貴方はいつも
一体
何を見ていたのだろう
*
冬の訪れ。
それは豊穣の女神デメテルにとって、愛しい娘とのしばしの別れの時。
(……また、行ってしまった。しかも、あのように軽やかに……)
ため息が洩れる。
ふと、背後に気配を感じて振り返ると、デスフォイアが心配そうに立っていた。
「母上……そのように嘆かれては姉上が心配なさいます。何より、冥王のお傍でお幸せそうですし、春が来ればまた会えるのですから……」
「……そうではないのよ、デスフォイア……」
デスフォイア──ポセイドンとの間に生まれたデメテルの娘であり、秘儀を司る女神。
「ならば、一体、何を憂いておられるのです?」
当然の質問に、デメテルはうつむいて口を噤む。
(ハデスに責任はない。わかってはいるのに……)
そっと自分によりそい、手を握ったデスフォイアのぬくもりを感じながら、デメテルは遥か昔のことを思い出していた。
*
地位を脅かされることを恐れた父・クロノスにより、生まれてすぐに飲み込まれていたデメテルたちは、末弟ゼウスによって助け出された。その後、ティターノマキア(ティターン神族との戦)、ギガントマキア(巨人との戦)を経て、ようやく平和が訪れようとしていた頃である。
大地を司る女神・レアは、その跡を娘・デメテルに委ねたい意思を示していた。デメテルが最も相応しいと。レアだけでなく、他の誰もが同じ期待を抱いていることに、デメテルも気づいてはいた。
それを重荷に感じていたデメテルだったが、いつしか「二人で共に背負えるなら、それも良いか」という考えが芽生えていた。祖父ウラヌスと祖母ガイアのように、父クロノスと母レアのように、だが、決して自分たちは仲違いなどしない──ハデスとなら、と。
だが、デメテルにはわかっていた。母が望んでいるのは、ゼウスが最高神として君臨すること。彼と共に世界を統治しろ、と言っているのだと。そして、それはゼウスの望みでもあると。
三兄弟の誰が、どこを治めるか、と言う話になった時、ハデスは真っ先に冥界に降りると明言した。ポセイドンもゼウスも、母・レアでさえも驚きを隠せないほど迅速な決断だった。
これには、さすがに気の荒いポセイドンですら状況を察した。結果として、彼を海に引かせ、兄弟同士の争いは避けられたのである。
この結末は歓迎された反面、デメテルには複雑な選択肢を与えることとなった。己の気持ち、ゼウスの気持ち、ヘラの気持ち、そして母・レアの思惑が心の内を駆け巡る。
それでも、ハデスへの気持ち──彼となら、例え行く場所が冥界であっても構わない、とも思っていた。例え、母に反対されたとしても、彼が手を差し出してくれたなら、と。
故に、ハデスの冥界行きが決定した時、デメテルは彼の顔を見た。手を握りしめたまま、瞬きも忘れて見つめていた。だが、一瞬、デメテルの視線の軌道を通ったハデスの視線は、止まることなく通り過ぎただけであった。
「…………!」
その時、デメテルは気づいた。ハデスにとって、自分は重きを置く存在ではないのだ、と。
失望と落胆、そして、自己嫌悪。
自分から動こうとはしなかった。だからなのかはわからなかったが、ハデスから手を差し出してくれることもなかった。
己を押し留めたものたちが胸の内に渦巻く。
自分に対するゼウスの気持ち。
ゼウスに対するヘラの気持ち。
ゼウスに対する母・レアの期待。
それらを振り切れなかった自分に、ハデスを責める資格などないと。
何も言えないまま、間もなくハデスは冥府へと赴いた。ひと言の言葉すら残さずに。
ゼウスは母・レアの望み通り、ヘラを正妻として天界を治めるようになった。それと並行して、デメテルはひとり、ひっそりと暮らすことにした。
神々の集いでハデスと顔を合わせることはあったが、互いに近づくこともなく時が過ぎて行く。そんな中で、どれほどの時が流れようとも、ハデスが妻を娶ることはなかった。ただ静かに冥府で過ごしている様は、いつしかデメテルにとってある種の救いにもなっていた。
勝手な希望だとわかっていても、それが自分を想ってくれている証拠のようにも思えたから。
(自分も静かに暮らして行けばいい)
だが、その願いの実現は難しかった。ゼウスからは3日と置かずに使いが来ていたし、母・レアからも遠回しな催促が届いている。このままでいることは不可能で、決断しなければならない時は近づいていた。
やがて、直接訪ねて来るようになったゼウスに、デメテルはついに諦めた。
*
「姉上……いい加減、戻って戴きたい。ペルセフォネと共に……」
ゼウスからの再三の迎えを、デメテルは頑なに拒んでいた。
ゼウスの傍に戻れば、どうしてもヘラと顔を合わせることになる。彼女は自分の顔など見たくないだろう、とも思う。
何より、神々の集いの折、ハデスと顔を合わせないとも限らない。ゼウスとの間に娘を産んだことが、ハデスの耳に届いていないはずはなく、今までのように赴く気にはなれなかった。ペルセフォネをダシにして、ゼウスがデメテルを呼び出そうとしている意図が見え隠れしていることも理由のひとつではあったが。
とは言え、ゼウスがペルセフォネに会いたがっていること、ペルセフォネが父に会うことを楽しみにしているのも事実であり、無下には出来なかった。故に、姉であるヘスティアにペルセフォネを託し、神々の集いなどには送り出していた。
戻って来たペルセフォネは、時折、その場にいなかったデメテルには良くわからないことを言い出したりもしたが、楽しそうに出来事を語る。そして、何故、母は行かないのか訊ねては、次は一緒に行こうとせがむ。
「そのうちね」
そう言って、何度、幼いペルセフォネ誤魔化したことだろう。娘に言えるはずもない。本当の理由など。
だが、デメテルの預かり知らぬところで、刻一刻と運命は迫っていた。
*
「ペルセフォネ様のお姿が見えなくなりました!」
いつもペルセフォネと花を摘んでいたニンフにそう報告された時、デメテルはかつてない程に動揺した。
「ペルセフォネが? 一体、何故(なにゆえ)……」
良からぬことに巻き込まれた可能性を懸念したデメテルは、ヘカテに知恵を求めた。
「……ペルセフォネ様は、ご自身が望まれた場所においでです」
その言い方は、少なくとも無事でいること、そして何かに巻き込まれた訳ではないことを示してはいる。
「……望んだ場所? 何のことを申しておる……?」
「ペルセフォネ様は冥王の元におられます」
「ハデス……の……!?」
ペルセフォネの行方がわからなくなった、と聞いた時よりもデメテルは狼狽えた。
だが、『ペルセフォネは冥府にいる』と言われても、デメテルの脳裏に『ハデスが連れ去った』などと言う考えは浮かばなかった。あのハデスがそんなことをするはずがないと、むしろそれしか浮かばなかった。
(ハデスがそのような無体なことをするなどと……これは一体……)
では、何故なのか──そう考え、すぐにデメテルは答えに行き着いた。
(……ゼウス……!)
何かに操られるように、デメテルは駆け出した。ゼウスの元へと。
「ゼウス! ペルセフォネがハデスの元にいるとは、一体、どう言うことなのです……!?」
デメテルの剣幕に驚く様子もなく、ゼウスは姉の顔を見上げた。
「言葉の通りです」
「何故、そのようなことになったのかを訊いているのです! 私に何のことわりもなく……!」
母として、デメテルの言い分は最もである。
「……申し上げれば、賛同して戴けたのですか?」
「そ、それは……」
だが、放たれたゼウスの問いには、デメテルの心の奥底にある本心への確認も暗に含まれていた。
「……それとこれとは別です! そもそも、あの子が何故、望んで冥府に赴くと言うのです! 良く知りもしないハデスの元へ……!」
「私があの子に頼んだのです」
ゼウスが静かに言い放つ。
「やはり……! ゼウス……そなたがペルセフォネに無理強いをしたのでしょう……!?」
怒りで戦慄くデメテルと目を合わせ、やがてゼウスは睫毛を翳らせた。
「……もう、長くこちらに来られていなかった姉上は、ご存知ではないでしょう」
「何のことです?」
「ペルセフォネが兄上のことを良く知らないなどと……貴女がここに来られることを拒んだため、ヘスティア姉上に連れられて来ていた幼いあの子は、はじめから兄上に懐いていたのですよ」
デメテルが息を飲んだ。
「人見知りをしない、人懐こい娘でした。あのヘラでさえ、邪見には出来ぬほどに。目立たぬ隅の方に佇む兄上にも当たり前のように近づき、無邪気に抱き上げて欲しいと要求した」
神々の集いから戻ったペルセフォネが、時折、デメテルには良くわからないことを話していたと思い起こす。
「はじめは戸惑い、やんわりと遠ざけようとしていた兄上も、諦めないあの子の態度に折れました。望むままに抱き上げ、あの子に手を引かれては引きずり回され、踊りの相手を務めた」
「ハデスが……?」
「私は、あのような兄上の笑顔を初めて見ました」
そのひと言に、デメテルは完全に打ちのめされた。
(あのハデスが……笑った、と……? ペルセフォネの、みなの前で……?)
静かにはにかんだような、笑みともつかない意思を口元に浮かべたところしか、デメテルにさえ憶えがないことだった。
「だから私は、あの子なら兄上の心を慰め得る存在になると確信しました。オリンポスの平和のために、敢えて孤独な選択をされた兄上の……」
呆然と手を震わせるデメテルを見つめつつ、ゼウスは続けた。
「暗い地下にいる兄上の春の息吹となって欲しい……そう頼んだ私に、ペルセフォネは最初少し迷っていたようですが、承諾してくれたのです。そして、貴女に言えば絶対に反対するから、と……そのまま冥府へ向かいました」
自分に責められることは承知の上でゼウスも認めたと知り、デメテルの心の内は激しくざわめいた。
「無理強いするつもりなど毛頭ありませんでした。ただ、もし、ペルセフォネが受け入れてくれたなら、兄上に対する唯一最高の礼となり得たことは事実です。兄上から全てを奪ってしまった私には……」
ゼウスの言葉が、またもデメテルの心を疼かせる。暗に自分たちのことも含んでいるのだと。
娘の選択を尊重したい気持ちと、どうにも割り切れない己の本心が激しくぶつかり合い、母としてのデメテルと、女神としてのデメテルを苛む。
「ペルセフォネを私の元に返してくれないのなら……私はこの世界に恵みをもたらすことを放棄します」
とにかく娘に会って話をしたい、と言うデメテルの気持ちが、ゼウスでさえも無視出来ない交換条件を出させた。
「……貴女ともあろう方が……」
ほとんど聞き取れないほどのつぶやきを無視し、デメテルはゼウスの元から去った。そして、娘が手元に戻るまで各地を放浪し、豊穣の女神の役目を放棄したことは周知の事実である。
「……とにかく、一度ペルセフォネを呼ぶしかあるまいな。あの子自身に、姉上を説得してもらう以外……」
ハデスとペルセフォネの心情を慮りながらも、このまま地上を荒れさせる訳には行かない──。
ゼウスは重苦しい心を鼓舞し、伝令神ヘルメスを呼んだ。
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