〘異聞・グリース5〙冥府を統べる三柱
暗く冷たい地の底で
彼は冬を待っていた
やがて巡り
必ず戻って来る暖かい冬を
***
秋も終わりを告げる頃。
「どうなさったのです? もうじき待ちわびておられた冬だと言うのに、そのように浮かないお顔をされて……」
女が主に訊ねた。
女の名はヘカテ。女神・アルテミスの従姉妹で、月と魔術を司る。
漆黒の瞳に光を宿す男は、ヘカテの質問に顎に添えていた指を離し、艶やかな黒髪をかき上げた。憂いを帯びた口元から溜め息が洩れる。
「今年は作物の出来が今ひとつだったようだ。その上、直に冬、となれば……デメテルの憂いも深くなろう」
「ハデス様はお優し過ぎます」
ヘカテの主──ハデスと呼ばれた──は、二人の弟と袂を分かっていた。末弟であるゼウスと天界の覇権を争って敗れ、同じくすぐ下の弟であるポセイドンとは海の覇権を争って敗れ、哀れ、今は暗い地の底に追いやられて冥界の王となっている。
──と言うのは表向きで、実際には争いを避け、自ら地の底へと降り去ったことは、彼の親しい者たちは誰しも知っていた。何より当のゼウスとポセイドンも、そんな長兄に敬意を払って止まない。
「人々が飢えて苦しむ姿に打ちひしがれるデメテルを、彼女が置き去りにして来れるとは思えない」
地の底で、ひとり静かに過ごす彼の唯一の慰めは、年に数ヶ月訪れる冬。
地上に冬が訪れる時、地底のハデスの元には春のように暖かい冬が訪れる。
一定の温度を保つ地底は、夏は涼しく、冬は暖かいが、暗く冷たい印象しかない。どんなに寒さを感じなくとも、春の訪れもない。
そんな場所にいる彼を、彼の心を暖めるもの──それは、唯一無二の存在。
「ペルセフォネ様は必ずお出でになります」
ヘカテが確信を持った声音で告げた。
「デメテルと私の板挟みになり、苦しんでいるのは彼女も同じだ。時に、天界の定めた決まりを少々見逃すくらいは致し方あるまい」
天界の決まりとは、冥府の食物を食べた者は、冥府との関わりを断ち切れないと言うものである。
世間では、ペルセフォネはハデスによって冥府に連れ去られ、無理やり妻にされたことになっていた。それを嘆き悲しんだデメテルの申し立てにより、ペルセフォネは地上の母の元に帰されたのだ、と。
だが、真実は違う。
ハデスがペルセフォネを選ぶ前に、ペルセフォネがハデスを選んだのだ。
彼女は父であるゼウスから、ハデスの妻になり、彼を支えて慰めてやって欲しい、と頼まれたのである。始めは困惑したものの、ハデスの人となりを知っていた彼女は、自らその道を選んだ。
*
ヘカテに連れられて冥府にやって来たペルセフォネを見、ハデスは仰天した。すぐにデメテルの元に戻るよう諭すも、ペルセフォネは受け入れず、父・ゼウスのハデスに対する心情を伝え、自ら冥府に在ることを誓った。
仕方なく、しばらくの間、彼女を客分扱いとしていたハデスも、訪れるはずのない春の来訪に、次第に心を解かされて行く。
(ペルセフォネ……春の女神よ)
生涯、諦めたはずの春の訪れ。
ペルセフォネの硬い決意に、ついにハデスも己の心を認めるに至った。ペルセフォネを正式に冥府の女王として迎えようと。
だが、娘を奪われたと思っているデメテルは、ゼウスに訴えた。そして、ゼウスの様子から、彼もこの話に絡んでいると察し、嘆きと怒りで地上に恵みをもたらすことを放棄したことは、周知の通りである。
人々は飢えて倒れて行き、さしもの困ったゼウスもハデスに使いを出さざるを得なかった。
だが、言い出したのはゼウスである。今さらペルセフォネをデメテルの元に帰せ、などと、どのような顔をして言えと言うのか。彼が兄に対するせめてもの心遣いと称したことが、このような形で仇なすなどと思いもよらぬことであった。
使いに来たヘルメスを扉の陰から見たペルセフォネは、一瞬で目的を理解した。そして、ハデスはその申し出を受け入れるだろう、と。
急いでその場から離れたペルセフォネは、テーブルに盛られていた柘榴の実を口に含んだ。
彼女は冥府に来てから一度も、冥府で作られた食物を口にしていなかった。地上で作られたもののみが、彼女の食卓には並べられていたのだ。
『冥府のものを口にすれば、冥府との関わりは断ち切れなくなる』
ペルセフォネはそのことを知っていた。それ故に、ハデスが心づもりとしていることも。
(これを食べれば、例え一度は地上に行ったとしても、冥府に戻らざるを得ない)
自らが選んだ道を、ペルセフォネは自らで守ろうとした。
「ペルセフォネ!」
途中まで食べたところで、迎えに来たヘルメスに見つかってしまった。
「さあ、デメテルが悲しんでいます。このままでは、人々が飢えて死に絶えてしまう……私と共に地上に戻りましょう」
溜め息が洩れる。だが、とにかく、ここは一度戻って、母を説得するしかないのだ、と。
「……ハデス……」
哀しげに、しかし諦めた顔のハデスが、目を逸らしうつむいている。ペルセフォネは、食べかけの柘榴を差し出した。
「…………!」
ハデスの目が驚きに見開かれる。同時に、ペルセフォネが自ら冥府を選んだことをも理解した。
「必ず戻ります」
耳元に、小さな声でささやく。
『戻らなくていい』
用意していたはずのその言葉を、ハデスは口にすることが出来なかった。
こうしてペルセフォネは一旦地上に戻ることになった。デメテルは喜んで迎えたが、娘の変化にいち早く気づいて落胆した。
「そなた……冥府の食物を食べたのですか? 冥府のものを食べたら……」
「知っております。冥府との関わりを断てなくなることは」
「ならば、何故! まさか、ハデスに無理やり……!」
すがりつく母を、ペルセフォネは静かに見つめる。
「私が自ら食べたのです、母上。全部、食べることは出来ませんでした故、幾月かはこちらにおります。けれど、また冥府に……王の元に戻ります。母上にきちんとお話しするために、私は今日、ここへ参りました」
デメテルは半狂乱になった。自分がゼウスに頼んで約定を取り消させる、と。
「母上。母上ともあろう方が、そのようなことをなさってはなりません。父上に頼むなど、いくら私のことであろうとも、例外を作るなど以ての外です」
そう告げると、デメテルの手をそっと解いた。
「母上。母上はまごうかたなき『女神』でいらっしゃいます。人々の生活をお忘れなきよう」
そう言って立ち上がった娘の顔を、デメテルは呆然と見つめる。
「母上。私は冥府に在って、決して不幸せなわけではありません。ご心配は無用です」
ペルセフォネが告げた言葉は、デメテルにとっては遠い物音のようなものであった。
それから数ヶ月、ペルセフォネはデメテルの元で過ごし、やがてハデスの元に戻る、と言う生活を送るようになる。
ペルセフォネがハデスの元にいる間、デメテルは引きこもり、決して作物を実らせようとはせず、ここから冬の訪れの始まりとなった。
*
ハデスは思い返していた。ペルセフォネが言っていたことを。
『私は母上を大切に思っています。尊敬してもおります。けれど、母上は母である以上に、誰よりも『女神』なのです』
『それは良いことではないのか?』
『……良いことなのでしょう。けれど、私はきっと、本当の意味で、心から母上と相入れることはない気がしています』
それがどういう意味であったのか、ハデスにもわからなかった。ただ、デメテルが母として至上の愛情を注いだはずの娘・ペルセフォネは、それが全てではない、と思っているらしい、と言うことしか。
(だが、デメテルの嘆きは年々深くなっている。ペルセフォネを数ヶ月の間は地上に戻す特別な約定を認めさせた手前、人々の生活のことを蔑ろには出来まいが……それを差し引いても、あのように取り乱す母を置き去りに出来るものでもあるまい)
考え込むハデスに、ヘカテは繰り返した。
「王……ペルセフォネ様は必ずお戻りになります」
その言葉に、無理に小さく微笑む。
と、その時、地底に吹くはずのない微かな風がくすぐった。
「……誰か来たのか?」
ハデスが訊ねると、ヘカテも入り口を振り返った。すると、鼻孔をかすめる花の香りと、遠くから足音が聞こえて来る。
「…………!」
石の廊下を歩いて来る人影に、ハデスは半ば腰を浮かした。ヘカテも目を見張る。
「ハデス……」
現れたのはペルセフォネであった。
「今、戻りました。どんなにこの日を待ったことか……!」
軽やかな風のようにハデスに飛び込み、驚きに固まるハデスの顔を静かに見上げる。
「何故……」
「何故? 秋は終わりました。だから、ようやっとここに帰って来れたのです」
嬉しそうに言うペルセフォネにハデスが戸惑っているのを見、ヘカテは笑いを堪えるようにそっと立ち去った。
「デメテルは大丈夫なのか? 今年は作物の出来が悪いと聞いたが……」
「それを解決するのも母たちの役目です。そして、人々も努力し、工夫しなければなりません。それより……」
ペルセフォネがハデスの頬に触れる。
「仰ることはそれだけですか?」
見上げて来る真っ直ぐな瞳を見つめ返し、ハデスは降参した。「敵わない」と言うように、小さく息を吐く。
「よく戻った」
こうして、本当の意味で冥府を司る三柱の神が揃った。
*
あの時、迎えに来たヘルメスが、柘榴の実を食べているペルセフォネに気づきながらもしばし見逃していたことは、誰も知ることのない、ここだけの話である。
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