〘異聞・エッダ1〙ラグナロク~神々の黄昏~
「参ろうぞ。共に黄昏の涯てまでも」
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アース、ヴァン、ヨトゥン、3つの違う種族の神々が混在していた世界。
その世界にあって、8本脚の愛馬・スレイプニルを駆り、光を放って天翔るヴォータン──即ち、アルファズルの名を戴きしアース神族の主神・オーディン。
70を超える呼び名を持つ彼は、詩文の神でもあり吟遊詩人のパトロンとも言われている。
足元にはゲリとフレキという2匹の狼がおり、情報を入手するために2羽の渡り烏──フギンとムニンを世界中に放っている。
神々の世界アスガルド、その宮殿ヴァーラスキャルヴの主として、全世界を視界にとらえることができる高座フリズスキャルヴから世界を見渡していた。
そんなオーディンに憧れ、義兄弟の杯を交わしたのがヨトゥン──即ち、巨人族出身のロキである。
悪戯好きの神と言われ、特技は変身。全く別の姿になるだけでなく、性別すらも変えることが出来たと言う。
また、美しい姿をしているが、その名の意味は『閉ざす者』『終わらせる者』である。
巨人族からもアース神族からも裏切り者と呼ばれるロキを、オーディンが何故傍に置くのか──『アルファズル』であるオーディン故の、全てを承知の上での座興であるなどと言われながら、実際のところを知るものはない。
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始まりの始まり。
世界が氷と炎のみの世界だった頃、牝牛・アウズフムラが舐めていた氷の中から最初の神であるブーリが生まれた。ブーリの息子・ボルと、巨人族の娘・ベストラとの間に生まれたのが、オーディン、ヴィリ、ヴェーの3人兄弟であり、つまり全ての神族の始まりは巨人であった、と言っても過言ではない。
兄弟と共に原始の巨人ユミルを殺してこの世界を創造したオーディンは、知恵と魔術を会得するため、ユグドラシルの根元にあるミーミルの泉の水を飲んだ。この時、彼は自身の片目を代償としており、故に、彼は隻眼の神として認知されている。
また、ルーン文字の秘密を得るために、ユグドラシルの木で首を吊り、グングニルに突き刺されたまま、9日9夜、最高神オーディン、つまり自分自身に自分を捧げた。
この逸話にちなんで、オーディンに捧げる犠牲は首に縄をかけて木に吊るし槍で貫くことになったと言われている。
余談ではあるが、タロットカードの『ハンギング・マン(吊された男)』は、このときのオーディンが元になっている、とする説もある。
このようにオーディンは、特に知識を得ることに関して貪欲であったが、それは『ラグナロク──神々の黄昏』に備えていたともされ、他にもワルキューレにエインヘリャル(戦死した勇者)をグラズヘイムにあるヴァルハラに集めさせ、大規模な演習を行なわせてもいた。
そこまで備えていたオーディンではあったが、『万能の神』の二つ名を持つ彼でさえ、ラグナロクの全容を知ることは出来ず、防ぐことも出来ず、最後はロキの息子フェンリルに飲み込まれたと言われている。
言い伝えでは──。
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神々が出払ったヴァーラスキャルヴ。彼方のあちらこちらでは、赤く紅く、巨人スルトの放った炎が立ち昇っている。
フリズスキャルヴに腰かけ、オーディンは黄昏ゆく神々の世界最後の日の出を眺めていた。
「……おお、やっと来たか」
入り口に現れた人影に、オーディンは親しげに話しかけた。声をかけられた人影は、一瞬、躊躇するようにすくむ。
「何を突っ立っている。ここで共に眺めようぞ。……ああ、そこにある酒を持って来てくれ」
入り口の人影はロキ。
言われた酒杯を持ち、ロキはオーディンに近づいた。
「…………!」
オーディンの姿を間近で見、一瞬、ロキは息を飲んだ。それに気づき、オーディンは不敵な笑みを浮かべる。
「まったく……危うくフェンリルに飲み込まれるところだったのだぞ」
フェンリル──ロキとその妻アングルボザの間に生まれた、巨大な狼の姿をした怪物。
「フェンリルが相手では、私も手加減することは叶わなかったわ。すまぬが、あやつはグングニルの的となった。とどめは息子ヴィーザルが刺したがな」
グングニル──狙ったものは、決して外さないと言われているオーディンの槍。その上、的を貫いた後は、自ら持ち主の手に戻ると言われている。
「グングニルも我が手に戻らなかったが……まあ、もう必要あるまい」
そう言って可笑しそうに笑ったオーディンは、見事な程に半身を食いちぎられ、失っていた。片腕、片脚がなくなり、元々隻眼故に、半身の機能がほとんど失われたことになる。
「そなたも一杯付き合え」
残った片手に持つ杯。ロキに酒を注がせ、オーディンは窓の外に視線を戻した。
「見よ。美しい光景だ。そなたに見せようと、そなたと二人で眺めようと思っていた光景だ」
ロキが小さく唇を震わせる。
「……私があなたを裏切ることなどない」
「そうだ。そなたが私を裏切るなどありえない」
オーディンのそのひと言でロキは全てを悟った。
(この世に、オーディンが知り得ぬことなどない)
ラグナロクに備えて行なっていた全てのこと──どんなに情報を集めても、戦死した勇者を兵として集めても──結局は、ラグナロクを防ぐことなど不可能なのだと、アルファズルにわからぬはずなどないのだと。
「……貴方は気まぐれ過ぎて……私はその都度、本当に振り回されましたよ」
「そなたは退屈など望んでおるまい。いや、退屈こそ、そなたの最大の敵であろうが」
「私の貴方に対する敬愛の気持ちを知っていながら……何度、胸を掻きむしり、絶望の淵に落とされたか……」
「それこそ、その後に杯を交わす時の最大のスパイスであろう」
「……本当に勝手な方だ……」
「私の噂を知っていて、目の前に現れたのはそなたの方ぞ」
顔を見合わせて笑みを浮かべる二人の間に、因縁も疑念も絶望も終焉もなかった。
ロキが杯をオーディンに掲げる。
「「 Prosit!(乾杯!)」」
己の杯を相手の杯に合わせ、共に飲み干した。
「私の望みは、どこまでもあなたと共に」
「良かろう。参ろうぞ。共に黄昏の涯てまでも」
窓の外に見えていた炎が次第に大きくなり、ヴァーラスキャルヴも飲み込まれた。やがて、世界が赤く赤く、どこまでも紅く染まってゆく。
まるで古き世界の終わりと、新しき世界の始まりを告げる合図であるかのように──。