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〘異聞・阿修羅王17〙歯車

 
 
 
 その日、阿修羅が見回りから戻るのを待ちかねていたのか、雅楽(がら)は落ち着かない様子で迎え出た。

「王……!」

「如何した?」

 普段、阿修羅と似たり寄ったりの落ち着き具合を見せる雅楽であった。滅多にない狼狽した様子に、何か余程のことがあったと直感する。

「……舎脂(しゃし)が……」

「舎脂がどうかしたのか?」

 一瞬、雅楽の返答が遅れた。

「……いまだ戻りませぬ」

 言われた意味を反芻する。

「出かけておるのか? どこに行ったのだ?」

「いつものように、朝、楽の練習をすると出かけて……普段なら、遅くとも昼過ぎには戻るのですが……」

 時は既に夕刻。雅楽が心配するのも無理はなかった。

「申し訳ありません。みなが様子を見に行くと申し出てはくれたのですが、王がお帰りになるまで待つよう、わたくしが留めたのでございます。……もし、万が一……」

 探しに行く、と言う家人を止めた理由を、阿修羅は瞬時に理解した。雅楽が何を懸念しているのかを。

 阿修羅一族は、みな勇猛果敢な手練れ揃いではあるが、今、目の前に敵がいない状況であれば、基本的には長(おさ)である阿修羅の命(めい)なくしては動かない。正しい状況把握と動きを重視し、王の妃として、不在時の代理として、雅楽がみなを留めたのは当然だった。

「いや、そなたの判断は間違うておらぬ。万が一、『穴』でも開いていたら大事……私が探しに行く」

 言うが早いか、阿修羅は踵を返した。

「わたくしも参ります……!」

 追って来た雅楽は、自分の馬の綱を解くと飛び乗った。

「傍を離れてはならぬぞ」

 雅楽がうなずいたのを確認し、阿修羅は馬を走らせた。

 舎脂がいつも練習している付近に着くと、阿修羅は馬から飛び降りた。辺りを見回せば、少し離れた場所に竪琴が無造作に置かれており、確かに舎脂がここにいたと言う痕跡はある。

「舎脂! 舎脂! どこにいるの!」

 雅楽が呼びかけるも、舎脂からの返事はない。阿修羅は鼻に意識を向けた。

(魔族のにおいはない。争った形跡もない……が……舎脂が持ち歩いているはずの剣が見当たらぬ……)

 様子を探る阿修羅の背後で、雅楽はさらに不安そうに周囲を見回す。

(うん……? このにおい……?)

 花の香りと舎脂の残り香の中に、憶えのあるにおいが微かに混じっている。辿った記憶の行先に息を止め、落とした視線の先に見たのは、馬蹄の跡と轍であった。

(これは……!)

 その跡を辿ると、双方共に途中で消えており、代わりに何か巨大な生物の足跡に変わっている。

(二頭立ての馬車……そして、この足跡……)

 疑いようもなく、その条件に当てはまる相手は一人しかいなかった。他の者ならいざ知らず、四天王や八部衆にわからぬはずもない。

「…………!」

 急激に吊り上がった阿修羅の柳眉と眦、そして身体中の筋肉が張りつめる。

「王……如何されました?」

「……舎脂の居場所はわかった」

 振り向かず、且つ、努めて平静な声で阿修羅は答えた。だが、僅かながら抑えたことがわかる声音に不穏なものを感じ、雅楽は咄嗟に声が出せなかった。

「雅楽……そなたは邸に戻り、門を全て閉じよ」

「王……」

 一瞬、雅楽は躊躇した。

「私は舎脂を連れに往く」

 断ることも、共に行くと申し出ることも、何よりそれ以上問うことすら許さない声音であった。

「わかりました……ですが、あの……」

「無理に押し入ろうとする者あらば、容赦するな、と羅刹(らせつ)に伝えよ。私が戻るまで、何人たりとも邸に入れてはならぬぞ」

 背を向けたまま放たれた言葉。背中から感じるただならぬ気配に、雅楽の瞬きは呼吸と共に止まり、指先が震える。

「よいな」

 念を押され、雅楽は呼吸を整えて礼を取った。

「……承知致しました」

 小さくうなずくと、阿修羅はまるで体重などないかのように馬に飛び乗り、一気に遥か上空へと駆け上がった。心配そうに見送る雅楽の視界で、その姿はみるみるうちに小さくなって行く。

「王……舎脂……」

 始まってしまったと、雅楽は漠然と感じた。

 何がどう、と言うことでなく、嫁ぐ以前に聞かされた運命(さだめ)が、理(ことわり)が、ゆるりと回っていたその歯車が、突如、回転を早めた瞬間を肌で感じたのだ。

 吸い込まれるように阿修羅が消えた上空を見つめ、しばし立ち尽くす。

「どうか、ご無事で……」

 祈りつぶやき、元来た道を取って返した。

 善見城(ぜんけんじょう)の門番二人は、突然、風のように現れた馬に身を固くした。

「阿修羅王……!」

 馬の背から降り立った阿修羅に、二人は安堵した表情を浮かべる。

「驚かさないでくださいませ、阿修羅王。突然、如何されたのです」

 眉ひとつ動かさず、何も答えようとしない阿修羅を、二人は訝しみ、そして困惑した。

「あ、阿修羅王……?」

 音もなく一歩踏み出した阿修羅に、二人が本能的に後ずさる。

「……至急、インドラ様にお目通り願う。門を開けよ」

 温度の低い声音が、二人の身体に緊張を走らせた。

「どうした? 私が……この八部衆・阿修羅王が通せ、と言うておるのだぞ」

 空気すら張りつめる空間。

 宇宙を宿した冷たい眼(まなこ)に射すくめられ、刻までもが凍りついたように、二人は立ち竦んだ。
 
 
 
 
 

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