〘異聞・阿修羅王17〙歯車
その日、阿修羅が見回りから戻るのを待ちかねていたのか、雅楽(がら)は落ち着かない様子で迎え出た。
「王……!」
「如何した?」
普段、阿修羅と似たり寄ったりの落ち着き具合を見せる雅楽であった。滅多にない狼狽した様子に、何か余程のことがあったと直感する。
「……舎脂(しゃし)が……」
「舎脂がどうかしたのか?」
一瞬、雅楽の返答が遅れた。
「……いまだ戻りませぬ」
言われた意味を反芻する。
「出かけておるのか? どこに行ったのだ?」
「いつものように、朝、楽の練習をすると出かけて……普段なら、遅くとも昼過ぎには戻るのですが……」
時は既に夕刻。雅楽が心配するのも無理はなかった。
「申し訳ありません。みなが様子を見に行くと申し出てはくれたのですが、王がお帰りになるまで待つよう、わたくしが留めたのでございます。……もし、万が一……」
探しに行く、と言う家人を止めた理由を、阿修羅は瞬時に理解した。雅楽が何を懸念しているのかを。
阿修羅一族は、みな勇猛果敢な手練れ揃いではあるが、今、目の前に敵がいない状況であれば、基本的には長(おさ)である阿修羅の命(めい)なくしては動かない。正しい状況把握と動きを重視し、王の妃として、不在時の代理として、雅楽がみなを留めたのは当然だった。
「いや、そなたの判断は間違うておらぬ。万が一、『穴』でも開いていたら大事……私が探しに行く」
言うが早いか、阿修羅は踵を返した。
「わたくしも参ります……!」
追って来た雅楽は、自分の馬の綱を解くと飛び乗った。
「傍を離れてはならぬぞ」
雅楽がうなずいたのを確認し、阿修羅は馬を走らせた。
*
舎脂がいつも練習している付近に着くと、阿修羅は馬から飛び降りた。辺りを見回せば、少し離れた場所に竪琴が無造作に置かれており、確かに舎脂がここにいたと言う痕跡はある。
「舎脂! 舎脂! どこにいるの!」
雅楽が呼びかけるも、舎脂からの返事はない。阿修羅は鼻に意識を向けた。
(魔族のにおいはない。争った形跡もない……が……舎脂が持ち歩いているはずの剣が見当たらぬ……)
様子を探る阿修羅の背後で、雅楽はさらに不安そうに周囲を見回す。
(うん……? このにおい……?)
花の香りと舎脂の残り香の中に、憶えのあるにおいが微かに混じっている。辿った記憶の行先に息を止め、落とした視線の先に見たのは、馬蹄の跡と轍であった。
(これは……!)
その跡を辿ると、双方共に途中で消えており、代わりに何か巨大な生物の足跡に変わっている。
(二頭立ての馬車……そして、この足跡……)
疑いようもなく、その条件に当てはまる相手は一人しかいなかった。他の者ならいざ知らず、四天王や八部衆にわからぬはずもない。
「…………!」
急激に吊り上がった阿修羅の柳眉と眦、そして身体中の筋肉が張りつめる。
「王……如何されました?」
「……舎脂の居場所はわかった」
振り向かず、且つ、努めて平静な声で阿修羅は答えた。だが、僅かながら抑えたことがわかる声音に不穏なものを感じ、雅楽は咄嗟に声が出せなかった。
「雅楽……そなたは邸に戻り、門を全て閉じよ」
「王……」
一瞬、雅楽は躊躇した。
「私は舎脂を連れに往く」
断ることも、共に行くと申し出ることも、何よりそれ以上問うことすら許さない声音であった。
「わかりました……ですが、あの……」
「無理に押し入ろうとする者あらば、容赦するな、と羅刹(らせつ)に伝えよ。私が戻るまで、何人たりとも邸に入れてはならぬぞ」
背を向けたまま放たれた言葉。背中から感じるただならぬ気配に、雅楽の瞬きは呼吸と共に止まり、指先が震える。
「よいな」
念を押され、雅楽は呼吸を整えて礼を取った。
「……承知致しました」
小さくうなずくと、阿修羅はまるで体重などないかのように馬に飛び乗り、一気に遥か上空へと駆け上がった。心配そうに見送る雅楽の視界で、その姿はみるみるうちに小さくなって行く。
「王……舎脂……」
始まってしまったと、雅楽は漠然と感じた。
何がどう、と言うことでなく、嫁ぐ以前に聞かされた運命(さだめ)が、理(ことわり)が、ゆるりと回っていたその歯車が、突如、回転を早めた瞬間を肌で感じたのだ。
吸い込まれるように阿修羅が消えた上空を見つめ、しばし立ち尽くす。
「どうか、ご無事で……」
祈りつぶやき、元来た道を取って返した。
*
善見城(ぜんけんじょう)の門番二人は、突然、風のように現れた馬に身を固くした。
「阿修羅王……!」
馬の背から降り立った阿修羅に、二人は安堵した表情を浮かべる。
「驚かさないでくださいませ、阿修羅王。突然、如何されたのです」
眉ひとつ動かさず、何も答えようとしない阿修羅を、二人は訝しみ、そして困惑した。
「あ、阿修羅王……?」
音もなく一歩踏み出した阿修羅に、二人が本能的に後ずさる。
「……至急、インドラ様にお目通り願う。門を開けよ」
温度の低い声音が、二人の身体に緊張を走らせた。
「どうした? 私が……この八部衆・阿修羅王が通せ、と言うておるのだぞ」
空気すら張りつめる空間。
宇宙を宿した冷たい眼(まなこ)に射すくめられ、刻までもが凍りついたように、二人は立ち竦んだ。
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