〘異聞・阿修羅王7〙近づく刻(とき)
「どうしたのだ? 以前より態度が良くなっているぞ? ついにおれを主と認めたか?」
嬉しげに話しかけてる来る摩伽(まか)に、如何にも『馬鹿馬鹿しい』という目を向け、須羅(しゅり)はすぐに前方へと視線を戻した。
「どうだ? おれと立ち合う気になったか?」
期待に胸を踊らせる子どものように、摩伽の眼(まなこ)が耀く。
「馬鹿も休み休み言え」
須羅が冷たく言い放つ。
何十回と繰り返されているやり取りだが、そんなことであっても、摩伽にとっては日常茶飯事以上のものになっていた。
「まだその気にならぬのか。だが、まあ、最初に比べればずいぶんと良い態度になっておるのは真のことだ」
「そのように──」
言いかけて、須羅は言葉を止めた。
『そのように言うてられるのも今のうちだけぞ。直に、気が向いたからと、出歩くことすら、ままならぬ身となるのだ』
それを伝えたところで、どうなると言うのか──夜叉(やしゃ)から予見の宣旨を聞き、現状で過ごせる時間は残り少ないのだ、などと。まして、弥勒について摩伽に話す訳にはいかなかった。
「何だ?」
虚空に吸い込まれた語尾に、摩伽が不思議そうな須羅を覗き込む。
「何でもない」
「今、何か言いかけたであろう」
「何でもないと言うておる」
あくまで受け流そうとする須羅の態度に、摩伽の顔にあからさまな不満が浮かんだ。
「最後まで言え。気になるではないか」
「くどい!」
会話を断ち切るが如き返事に、さすがの摩伽も口を噤む。一旦、呼吸を止め、須羅はそれを静かに吐き出した。
「……いつまでも自由でいられる身と思うな。それだけだ」
摩伽自身の立場を暗喩し、また、己にも言い聞かせる。
「私は邸に戻る」
摩伽の眼が僅かに見開かれた。
「……いつもより早いではないか」
「客があるのでな」
「それは……優先すべき相手なのか……!」
おれよりも──摩伽はその言葉を飲み込んだ。そんなことは一笑にふされることは分かり切っていたし、そうすることで『役目より』という差異も含められる。
「優先すべきかどうかと言うのであれば、先に約されたものが優先されるは必定だ」
摩伽の心情を知ってか知らずか、やや静かな返答であった。それ故、なお一層、返す言葉が見つけられない。
「……誰だ……」
関係ない、とひと言で断ぜられるのを承知していても、摩伽は訊かずにいられなかった。だが、意外なことに、一度振り返った須羅は、前方に視線を戻しながら答えた。
「乾闥婆(けんだっぱ)だ」
一瞬で、摩伽には『用件』の内容が把握出来た。初めて須羅と逢った直後、乾闥婆と交わした会話が脳裏を巡る。
「……おまえは……」
「何だ?」
再び振り返った須羅の目を、幻でもみるように見つめたまま、摩伽の言葉は途切れた。
「おかしな奴だ。用がなくば、私は行くぞ」
去って行く須羅の背を見つめて立ち尽くす。取り残された摩伽は、己の中に湧き上がった不可解な感情を解読し、理解しようと努めた。
(……おれは今、須羅に何を言おうとしたのだ……?)
そんなはずはない。
それしかない。
(八部衆の一員ともなれば、それこそおれの配下となるではないか)
それがわかっていても、どこかに感じる物足りなさ、空虚感。
「おれは須羅をどうしたのだ……? 近習にでもしたいのか?」
自問自答する。だが、『近習』などという存在として須羅を望むのなら、八部衆であっても違いはない、とも思えた。
己が望んでいるのは、そんなことではない。それだけはわかる。そうではなく、もっとこう、別の近しい何かなのだと、摩伽はそれを言葉でも何でも良い、明確な形として表したかった。
「いや、おれは奴と立ち合いたいのだ。奴にあって、おれにないものが何なのか見極めたい。それだけのはずだ……」
それが出来ぬ故に、確認し、真実を探るふりをして己に言い聞かせた。
むろん、たぎる闘争心は確かに本物で、それは軍神としての変えざる本能でもある。何より、自身の最強を証明したい気持ちと、互角に渡り合える好敵手というべき存在への渇望もある。
だが、それだけではない。如何ほどに納得しようとしても、その『何か』がわからぬことで、摩伽の心の内に己への不信感が募って行く。
(なれば、あの須羅が、どんな面でおれと向き合うようになると言うのか……)
考えても答えの出ぬ問いに、摩伽はいつまでも立ち尽くすしかなかった。
*
邸に戻った須羅を、硬い表情の家人と、それ以上に深刻な顔をした乾闥婆が迎えた。
「待たせたな」
「いや……私の方こそすまない」
須羅が促し、ふたりは向き合って腰を下ろした。
「むろん、弥勒(みろく)の件は聞いておりますな?」
「夜叉(やしゃ)から聞いた。急を要する訳ではないが、心積もりはしておかねばなるまいな……互いに」
乾闥婆が頷き、同意する。
「……で? 王よ、返答は?」
「返答とは?」
「互いに、と、今、自ら言うたではござらぬか」
むろん、雅楽(がら)との婚儀のことを言われているのはわかっていた。互いの眼の奥に本心を探り合う。
須羅は思案するように視線を下方に向けた。
「……その前に……」
僅かに唇が動き、再び、乾闥婆と目を合わせる。
「確認しておきたいことがある」
互いに目を逸らすことなく、一瞬の間。
「……何なりと」
須羅の視線を受け止めたまま、乾闥婆は静かに答えた。