〘異聞・阿修羅王18〙岐れ路(わかれみち)
門番たちの様子は、蛇に睨まれた蛙のようだった。
「何をしておる。早う、開けよ」
硬直する二人。殺気を放たれている訳ではないのに、手の震えも流れる汗も一向に止まらない状態に慄く。
「ほ、本日の謁見の刻限は過ぎておりまする。急を要する理由なくば、例え阿修羅王と言えど、お通しする訳には参りませぬ。御用の向きを承ります故……」
役目を果たさんと口上を述べる門番だったが、阿修羅の眼(まなこ)に変化はなく、つまり感情の機微は見えないままだった。にも関わらず、静かに、だが確実に圧を加えて来る様は、あからさまに怒りを湛える相手より却って質(たち)が悪い。
「……急を要するからこそ、私がこうして罷りこした、とは思わぬのか?」
「なればこそ、御用の向きをお伺いしたい」
二人は食い下がった。だが、その間も汗と震えは留まることを知らない。
「……私を通すか、ここに連れて来るか……私はどちらでも構わぬのだぞ」
一段も二段も低い声で通告され、二人は殺気ではない何か、に総毛立った。硬直したまま返答のない二人に痺れを切らせ、再び阿修羅が一歩踏み出す。
「……なれば、勝手に通らせてもらう」
雷にでも撃たれたような身震いが走り、慌てた二人は正面に立ちはだかった。
「……お、お待ちください……! お待ちください……何卒……!」
ただならぬ空気に、辺りにいた番兵たちが集まり出し、だが、状況がわからず右往左往していた時である。
「これは一体何の騒ぎぞ!」
逃げ腰ながら、阿修羅を留めようとする二人の背後から、低く、勇猛な声が響いた。
「び、毘沙門天様……!」
現れた毘沙門天に、その場にいた全員が息を飲む。ただ一人、阿修羅を除いて。
番兵たちの間をすり抜けた毘沙門天は、門前に仁王立ちしている阿修羅を睨んだ。
「このような騒ぎを起こして、何のつもりだ?」
「騒ぎを起こしたつもりなどない」
四天王の筆頭である毘沙門天を前にしても、阿修羅には恐縮する様子も控える様子もなく、周囲の方が固唾を飲む。
「ほう? では、この事態を何とする?」
「私は用があるから通せ、と言うただけぞ」
「そこまでして、インドラ様に何用か?」
畳み掛けるように問う毘沙門天に、阿修羅の柳眉が僅かに反応した。
「何故(なにゆえ)、お前に言わねばならぬ?」
ぐっと喉を締めた毘沙門天が阿修羅を見下ろす。
「インドラ様は本日のお役目を終えられた。用件を言わねば、例えそなたでも通す訳にはゆかぬ」
視線を交える二人の周囲は、まるで一触即発を恐れるかのような緊迫感に満ちていた。いつの間にか、毘沙門天の背後には、他の四天王も現れている。
「……なれば、言おう。ここに舎脂(しゃし)が連れて来られたはずだ。今すぐ、返してもらおう」
咄嗟に言われた内容を理解出来ず、毘沙門天の思考は肉体と共に硬直した。
「……舎脂……そなたの娘が? ここに? 一体、何を言うておるのだ、そなたは? そのようなこと、あるはずがなかろう……!」
「あるはずがなくとも、事実だ。ここに来る前に厩舎を見て来たが、これは間違いなく阿修羅族の……舎脂の耳飾りぞ」
阿修羅が眼前に晒したものに、毘沙門天は息を飲んだ。
「舎脂を連れて来ぬなら、私はここを通るぞ」
阿修羅が嘘や出鱈目を言うなどと、毘沙門天とて考えてはいなかった。だが、俄には信じられない。
「……わかった。私がインドラ様に確認して来る故、しばし、ここで待て」
動揺を隠し切れない毘沙門天を、阿修羅が上目で見つめる。
「……良かろう」
高位である毘沙門天に対してさえ、阿修羅の態度は変わらないままだった。それは周囲をひやりとさせるに十分なものだったが、当の毘沙門天自身は他のことで頭がいっぱいになっており、意に介する余裕もない。
他の四天王と共に奥に引いた毘沙門天は、人目が遠くなったところで広目天(こうもくてん)に耳打ちした。
「他の八部衆を呼んでおけ」
一瞬、驚いたものの、小さく頷いた広目天は歩を緩め、三人から離れた。
*
「インドラ様。私です。よろしいですか?」
インドラからの返事はなく、三人は顔を見合わせた。
「インドラ様、いらっしゃらぬのですか?」
再度、問いかけるも反応はない。
「……ここで待て」
二人を待機させ、毘沙門天は扉に手を掛けた。
「インドラ様。失礼致しますぞ」
足を踏み入れると、室内に人の気配はある。
「インドラ様。おられますか?」
「何だ、今頃。何用ぞ?」
寝台のある奥の薄い天幕から、寛いだ姿のインドラが現れた。
「お訊きしたきことがございます」
髪を掻き上げ、インドラが顎で続きを促す。
「阿修羅王の娘御は何処(いずこ)でございますか?」
インドラは何も答えない。
「どのような経緯(いきさつ)でお会いになったのかはわかりませぬ。しかしながら、こちらに連れて来たことはわかっております。今、阿修羅が門前に罷りこしております故、早急に……」
天幕に添えたインドラの手の向こうに、微かに人影が揺れた。
「…………!」
寝台の奥に女の後ろ姿を認め、毘沙門天の全身を虚無感が襲った。