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〘異聞・阿修羅王16〙遭遇
アイラーヴァタで飛び出したインドラは、須彌山(しゅみせん)の上空と言わず、地と言わず、思うまま存分に駆け巡り、幾日かが過ぎた。
「ふむ。やはり須彌山は美しいな」
その頃には、さすがに機嫌も持ち直しており、城でやきもきしている側近たちの顔を思い浮かべては、笑う余裕も戻っていた。
「さて、あやつら……今頃、どんな面(つら)をしておることやら……」
──と、その時、どこからか聞こえて来る楽の音(ね)に気づく。
(……琴か……?)
かなり遠くから風に乗って来るのか、微かに聞こえる程度の音。それでも、思わず聞き惚れる程に心地好く、アイラーヴァタを止めて耳を傍立てた。
よくよく聴いても見事な楽の音に、しばし時を忘れる。
(……? この音色……?)
ふと、聞き覚えがあることに気づき、近くに降り立った。さらに聴き入ると、竪琴の音に歌声も重なっている。
「これは……乾闥婆(けんだっぱ)の奏でる音色によう似ておるが……」
だが、重なる声は歳若い娘のものだった。仮に、奏でているのが乾闥婆だとして、別の誰かが一緒であることも間違いない。
(どこだ?)
聞こえて来る方向を探り、インドラの額の中心に在る第三の目が薄らと開く。
「あちらか……」
近づくにつれ、はっきりとして来る声と音(ね)からは、インドラでさえ驚かずにはいられぬ類まれな才が溢れ出していた。
(これは……似た音色ではあるが、乾闥婆ではないな。どちらかと言うと……そうだ、乾闥婆の娘……雅楽(がら)と申したか……あの女子(おなご)の音に似ておる)
通常では見えるはずなどない距離だが、広大な花野にいる奏者の姿を、インドラの第三の眼(まなこ)は確実に捉えた。
(……ん? あれは、雅楽ではないな……)
遠目に見ても、雅楽よりはかなり歳若い娘。だが、その面立ちが、何より見事な楽の音が、インドラの知る楽師・雅楽を彷彿とさせる。
「…………!」
不意に、周囲から時折もたらされた噂のいくつかが、インドラの脳裏で渦巻き始めた。例えば、阿修羅王の娘には楽才があり、近い将来、楽師として召される予定だ、などという噂である。
(まさか……)
ひとつの可能性が浮かび、思考を席巻するものたちが一瞬でかき消された。だが、その『可能性』すら、吟味される前に霧散した。
突然、何かに気づいたように、娘が手を止めたのである。しかも、顔を上げた視線が、真っ直ぐにインドラのいる方角を捉えている。到底、娘に見えるはずのない距離であるにも関わらず。
(……偶然か? この距離で見えはすまい……)
そうは思いながらも、己に向けられた視線が逸らされることもない。
(見えずとも、おれが近づいてる気配を感じるのか……?)
不思議そうな娘の様子から、インドラはそう判断した。自分の方から視認出来る程度まで接近し、アイラーヴァタを止める。
娘からはまだ見えぬはずの位置であっても、インドラにとっては間近とも言える距離。そこでインドラは娘の面立ちを、正確には濃い色の瞳を目の当たりにし、息を飲んだ。
(あれは……あの眼の色は……)
宇宙を映す、いや、宇宙が広がる瑠璃色の目。遠目でもわかるそれは、間違いなく、阿修羅族の王たる者から受け継いだことを物語っていた。
知らず知らずのうちに、アイラーヴァタの歩を進める。
「…………!」
突然、姿を現した男に気づき、娘は身を固くして息を飲んだ。
「……舎脂(しゃし)……か……?」
名を呼ばれ、娘の中で不確かだったものは確信へと変わった。
魔族ではないことは、ひと目でわかった。むしろ、それ以上に恐ろしい相手であることも。白象に乗る男──その姿を見てしまっては、目の前にいるのが誰であるのか、は疑いようもない。
「……貴方様は……」
娘──舎脂がひとり言ともつかぬ声でつぶやいた。
インドラにとっては、全ての思考力が霧散したのではないか、と感じられる刹那。にも関わらず、己の脳が凄まじい勢いで娘を分析していたことを自覚する。
(やはり、似ているとは言えん。だが……)
万物をも吸い込みそうな瑠璃色の宇宙──瞳が、真っ直ぐに己に向けられているのを認識した時、逆にインドラは無意識の内にアイラーヴァタを走らせていた。いつの間にか、額の第三の眼が半眼まで開き、アイラーヴァタが淡い光に包まれる。
ほんの瞬きひとつ程度の後、白象であったはずのアイラーヴァタは、二頭立ての馬車へと変貌していた。しかも、馬車となったことで、アイラーヴァタの走る速度が増す。
自分に向かって、突進して来るかのような馬車を、舎脂は訳も分からず避けようとした。だが、声を上げる間もなく掬い上げられ、その片腕の中に収められてしまった。
「な、なにを……!」
抗おうとする舎脂の力など物ともせず、インドラは馬車に変貌したアイラーヴァタをもう片方の手で駆る。
「なにをなさいます……! お放しくださいませ……!」
もがく舎脂を抱えたまま、インドラはあっという間に上空へと駆け上がった。みるみるうちに花野から遠ざかる。
後には、舎脂が持って来たのであろう竪琴が置き去りにされ、花野には何事もなかったかのような静けさだけが取り残されていた。