〘異聞・阿修羅王12〙契
自らが正式な八部衆となった式典の場で魔族掃討の命を受け、そのまま出立した須羅(しゅり)は、数日後、何事もなかったように帰還した。
「留守居、ご苦労だった」
「ご無事のお戻り、何よりでございます」
「突如、あのような形で慣れぬ邸に置き去りにしてすまなかった。が、行き届いた佇まい……しっかりと守ってくれていたことがわかる。感謝するぞ、雅楽(がら)……そして、みなも」
雅楽と家人に安堵の表情で迎えられ、須羅はさりげなく邸内を見回した。表情に変化はないものの、労いの言葉には心がこもっている。
「……西の地は……どのような状態でございましたか?」
着替えを手伝いながら、雅楽が遠慮がちに訊ねた。むろん、傷ひとつ、服のほつれひとつない須羅の姿を見れば、苦戦などするべくもない相手であったことは容易に想像出来る。それでも知っておきたい、いや、知っておくべきであると、雅楽は思った。
「それほどの規模の『穴』ではなかった。だが、そのままにしておけば広がり、やがて『門』となる可能性もある。今のうちに潰しておくが正解であろう」
『穴』とは、魔族が獄界から出て来るための繋ぎ目である。気づかないで放置すれば大きく広がり、やがて天界と獄界を繋ぐ『門』となり得る可能性は高く、そうならぬうちに塞いでしまうに限る。
「インドラ様には……」
「既に報告した。各地の見張りを強化するとのことだ。安心せよ」
邸に戻る前に報告を済ませて来たことを知り、雅楽の胸中には先だってのインドラ──摩伽(まか)の様子が甦った。あの時の摩伽の表情は、視線は、一体、何を意味していたのか、と。
「どうした?」
「あ、いえ……では、安心でございますね」
雅楽は慌てて話を逸らした。
「父から王へと、果の実が届いております。お戻りになられたらお疲れを癒されますように、と。今宵の夕餉にご用意致しました」
「乾闥婆王(けんだっぱおう)から? そうか……では、明日にでも礼を申し上げておこう」
疑問を打ち消すことは出来なくとも、結局のところ、それは考える必要のないことであり、それ以上に考えてもわかることではないだろう、と切り替える。
「不自由はなかったか?」
夕餉の席で、須羅は雅楽に訊ねた。止むを得なかったとは言え、慣れぬ場所に、いきなり置き去りにしたことを気にかけてくれていたのだと、その心遣いを雅楽は嬉しく思った。
「未だ至らぬことばかりでございますが、皆様に良くして戴いておりまする」
「そうか」
決して社交辞令ではなく、邸の家人たちは主に似て寡黙ではあったが、働き者で心根の良い者ばかりである。過剰に干渉することはなく、かと言って、過剰に気遣うこともなく、心地好い距離を測る術を心得ていた。
「何かあらば、すぐに申せ。良いな」
「はい」
父・乾闥婆からの届け物を口に運ぶ須羅に答えながら、雅楽は小さく頷いた。
*
その夜、雅楽が部屋に入ると、須羅は開け放した窓から外を、正確には上空を眺めていた。静かに近づくと、並んで見上げた空には見事な弓なりの光。
「満ちるには、しばらくかかりそうでございますね」
静かに隣に立ち、誰に言うともなく口にする。
「そうだな」
答える須羅の横顔は怜悧で、雅楽は改めて自ら背負うと決めた運命(さだめ)を胸に刻みつけた。本当なら、須羅は雅楽の気持ちなど慮る必要はなく、己の決めたままに振舞って憚らない身である。にも関わらず全てを打ち明け、その上で雅楽本人に選ばせようとしてくれたのだ。
「王……」
「どうした?」
自分に視線を向けた須羅に、雅楽は交差させた両の腕(かいな)を胸に当て、静かに跪いた。
「わたくしは、わたくしを信頼して全てを話してくださった王のお心に添えるよう、出来得る限りの力を尽くす所存でございます。如何ようにも、わたくしをお使いくださいませ」
一瞬、驚いた須羅の眼が、僅かに見開かれる。
「雅楽……」
「くれぐれも、そこに手心などお加えになりませぬよう……どうかお忘れくださいますな」
その言葉で、須羅は改めて思い知った。雅楽は忠実に課された役目を守ろうとしているのだと。彼女を娶るか否か決めかねて打ち明けた話を、互いを信頼する証として。
「……そなたのその心意気に報いるものは、私には何ひとつない」
言いながら、須羅は自らも膝を折り、雅楽と視線を合わせた。
「代わりに私は、必ず約した運命を守る」
「王……」
「それで赦せ」
立ち上がり、須羅は静かに雅楽を引き寄せた。
「もったいないお言葉……」
雅楽は自分を引き寄せた須羅の腕に、思いもかけない力強さを感じた。他の四天王や八部衆、何より摩伽と比べた須羅は、一見、少女のようにも見えかねない華奢さである。にも関わらず、今、自分に触れている腕は儚さなど微塵も感じさせない。
(この方は……髪一筋、爪の一欠片までが、紛うことなき阿修羅王なのだ)
我ながらおかしなことを、と雅楽は思った。だが、自分の嫁いだ相手が『阿修羅王』であると、今さらはっきりと思い知った気がしていた。