
中込遊里の日記ナントカ106回「自由とは何か/2022年まとめ」
2023年元日。私は、「真の自由」について、ぼんやりと考えている。
37歳とか38歳でなにかが起こる
37歳か38歳でなにか素晴らしいことが起こる、とはるか昔に(いつだかは忘れた)勝手に決めて、2022年に37歳になった。
はたして、劇団の長年の夢であった海外公演を決行した。たいへんに素晴らしい経験だった。しかし、私の予感した「37歳とか38歳でなにか」は別のことのように思う。
1年過ごしてみて、「なにか素晴らしいことが起こる」わけではなくて、「なにかの変化が起こる」という方がたぶん正しいと気が付いた。
思春期時代に書き溜めていたノートの中の「生きて、生き慣れて、生き崩す」を今でも時々思い出している。(桃井かおりがどこかで発言していたのをメモしたようだ、さすが桃井かおり、かっこいい)
「37歳とか38歳」での変化は、「生き慣れた」という感覚に近いかもしれない。色々なものにあまり抵抗しなくなった。反抗はするけど、抵抗はしなくなった。怒りや悲しみは減らないけど(それは生きるエネルギーだ)、不調のときの対処法が分かり始めてきた。
訓練の場!「演劇ネットワークぱちぱち」
私が2021年度から運営する「演劇ネットワークぱちぱち」は2年目にしてより具体的に訓練の場だった。
「演劇ネットワークぱちぱち」は、18歳以上25歳以下の演劇を続けたい思いのあるユース世代がゆるやかに集まり、仲間を見つけて、自分にとっての演劇の続け方を試す場。そこでは3日に1回くらい(2021年度の実績。2022年度はもっとかも。)リモートや現地で演劇の稽古・ワークショップ・勉強会・映像やラジオなどなど実に様々な演劇のあれこれが行われている。最新記事↓
https://note.com/engeki_8888/n/n93a36dd47fda
ユース世代と一緒にあらゆる企画が進行する中で「企画立案→広報宣伝→実行→アーカイブ→振り返り」が押し寄せる。それらを、ユース世代と一緒に進めるために仕組みを作ったり人を集めてきたり関わる人々を励ましたりする。
ぱちぱちの仕事に向かうとき、脳裏に、スポ魂マンガのコーチが現れる。「中込ー!すぐ打て!スピードが足りない!丁寧さが足りない!見込みが甘い!なんで失敗したのかよく考えろー!」とか言いながら、様々なサイズの球をバンバン打ちこんでくる。ともかく、下手ながらも、愛あるボールを打ち返せるように、必死である。
最も勉強になるのは、劇団活動だけではなかなか出会えないだろう人たちと一緒に「同僚」として演劇企画を進められることだ。主催の(公財)八王子市学園都市文化ふれあい財団の職員の方々、演劇系の大学生、若き演劇創作者、アーティストなどなど。
「ネットワーク」と名付けた通り、演劇専用のSNSのごとく何百人(もっと?)の人が繋がり、あらゆる企画が生まれ、それぞれの演劇の続け方の実験結果がアーカイブされる、という理想を目指し2023年も励む。
「鮭スペアレ」(劇団)にとって良い作品とは
一方、鮭スペアレでは、関わる人をどんどんと増やそうとは今のところ思えない。私の思う「良い作品」に同意してくれる人たちと、じっくり作りたい。
良い作品を作る。そのために劇団をつくって、演劇を行う。必要な手段を講じるにあたって、目的はなんだろう。私にとって、私と一緒に演劇したいと思っている者たちにとって、良い作品とはなんだろう。
2022年5月のミラノ公演・東京凱旋公演を経て、劇団員と、良い作品をつくり続けるための仕組みやミッション・ビジョンを改めて話し合ってきた。コロナ禍でラジオ配信や感染症対策を施した公演など様々と創作してきた鮭スペアレだが、改めて劇団の目標や体制を見直すために、作品を出すのをいったんストップすることにした。
「人は何者にもなりきれない」を追求する
「演劇は贅沢な遊び、秘密のパーティー」というモットーを掲げて2006年に立ち上げた鮭スペアレは、今は「私たちは何にもならない」というモットーで活動している。2020年の「物狂い音楽劇『リヤ王』」から出したが、それまでも、言語化はせずとも何年もそこに向かってつくってきたと思う。
私たちは何者なのか?誰にもわからない。わからないまま、人は、生まれて、死ぬ。わからないことは恐怖である。だから、人はなにかになろうとする。母親、父親、夫、妻、恋人、仲間、会社員、専門家…あらゆる肩書を背負う。
だけど、なにかの肩書を借りて人間関係を築くことはできても、「なりきる」という確かさは得られない。
そのことに敏感に気が付いて、それを面白がったり苦しんだりする人たちが、芸術という人間探求の道を志すのだと思う。特に俳優は、自分の体をそのまま扱っていろいろなものになろうとするのだから、直球だと思う。
だから、演劇で「人は何者にもなりきれない」を追求するということはド直球だと私は思っている。
真の自由を垣間見るための演劇
ド直球のモットーを掲げて、なにを目指すのか?
演劇を手段として、自由を知るためである。
私は、自他ともに認める『ワンピース』のルフィなので、この海で最も自由な存在が海賊王なのと同様に、最も自由な演劇王になるのである。(太陽の神ニカの鮮烈な戦い方には、感動の涙なくしては読めなかった!コミックス派です)
というのと、「生き慣れた」(ような気がする)今、死ぬまでをどう生きるかを考えるのである。私は100歳まで生きると決めているのでまだまだ生きるのだが、生きることに馴染んできた今、死ぬことに興味が湧くのだった。
死ぬまでを、どう生きるか。私なら、自由に生きたい。
「自由」とはもともと仏教用語で、「自(おのず)からに由(よ)る」という意味だそう。すなわち、他人の意見に左右されず自分自身の価値観や指針で動くということだ。
これだけだと、わがまま放題、自分の欲望のままに生きる、という意味にも捉えられるだろう。しかし、仏教のいう「真の自由」はそうではない。
戒律(ルール)を守り、この世でもっとも大切な自分自身と同様に他者を思いやることから「真の自由」が手に入るのだという。(敬愛するYouTubeチャンネル『須磨寺小池陽人の随想録』参照 https://www.youtube.com/watch?v=tb8lZeWHuQ0)
自分の軸を持ち、自分を大切にする。さすれば、自分と同様に、他者への思いやりを持つことができる。真の自由はその厳しく優しい人間関係の中にあるのだと思う。
自分の軸を持つためには、自分を知り、人間の真理を知ることが要だろう。その人間研究の舞台として、様々な人生が描かれる演劇は最適である。人間の真理のひとつは「何者にもなれない」ことだと確かに感じる。だから私は、俳優と一緒に「何者にもなれない人間」を探求する。
さて、鮭スペアレの演劇が「真の自由」までたどり着くかというとあまりにもおこがましいのだが、丁寧につくっていけば、真の自由を垣間見る、見たかも、くらいはいけるのじゃないだろうか。いや、いきたい。そのために演劇をつくりたい。