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︎【御礼】2024年の「聲」まとめ【詩人の聲】

御礼が遅れております。色々考えてなかなか投稿できずにいました。まだ纏まらず想いダダ漏れですが、自分のけじめ、記録として。
2024年の「聲」まとめです。

今年は3月の詩人の聲参加から始まり、4月には初の国際詩祭の現地参加と良いスタートを切る事ができました。
日本と違い、高気圧で空気も薄く万全の体調と言えない中、
あちらこちらから大きな音の入ってくるコロンビアのブックフェア会場にて仕切りがされているだけの吹き抜け天井大ホールという空間でもマイクのない「肉聲」のみで聲を、
言語の異なる全ての人の耳に届ける事が出来、多くの反響を得ることが出来た、という成功体験は間違いなく「聲」を鍛えてきた成果であり、これまで14年間進んできた

「聲ノ道」

に間違いはなかった、と実感できた瞬間でした。

しかし、やはり一筋縄では行かず…だから武道なのでしょうが…
(わたくしは「聲ノ道」は「武道」であると確信しております)

…数年前「今回の公演では聲が口から自ら飛び出て傍若無人に空間を飛び回っている気がした。これをうまく手なづける事ができれば…」と投稿した記憶がありますが、
この時からわたしは「聲」という「生物」(イキモノ、活きもの、ナマモノ)を勘違いしていたようです。

帰国してからというもの、「聲」は大きいけれどそれをコントロール出来ず、人の心に届ける事が出来ていない。
またそれを認識、理解出来ず、自分でも「イッタイナニガナンダカワカラナイ」状態が長く続き、正直聲を撃つこと自体がコワクなった期間もありました。
そんな中、白石かずこさんの追悼会に参加させていただき、また友人が続けて亡くなり、かと思えば何年も連絡をとっていなかった友人たちから不思議と連絡がきてお話をしたり、亡くなった友人に向けた詩やエッセイを書いてポツポツと聲に載せたり、他の参加詩人の方や仲間たち、家族と話をしているうちにフト

「聲」を出す事に一生懸命になるあまり、
「聲」という「字」の「耳」の存在、つまりは「他者の存在」を蔑ろにしていたのではないか?

と気がつき、脳天にゴォ〜ン!と、除夜の鐘を打ち付けられたやうな大ショックでした。

「わたしの聲には優しさがなかった」と、いつも話を聞いてくださる詩語りの田川紀久雄さんに気持ちをぶつけてみたところ、

「そうじゃないでしょ。優しさは十分あるのに優しさの活かし方がわからなかっただけでしょ」と言っていただき…泣きました。

聲を手なづけようなどと、なんと烏滸がましい思い上がりだったのか。

宇宙誕生以前、
「光あれ」以前のナニもない無音
混沌の中
「はじまりの"音"」が鳴り
響き
重なり
連なり
呼応して
聲、
空間、
宇宙ニ、
歌、
魂、
想ヒ、
イシ

ドシ、
娑婆、
で生きていく上では避けられない生病老死と向き合いながら、それでも生きて行かなきゃいけない人間の想ヒ、
カラ絞り出した

ニ、
寄り添って寄り添われて、
共に生きていきたい。
言葉と声を紡いでまた未来につないでいく、
別の人間に返していくということができるのは、それが可能であるのは、
それこそ、人間の肉聲だと、
想フことの出来た一年デシタ。

11月の誕生月にそれに気づくことが出来たのは、神からの贈り物でした。感謝です。

また、照井良平さんと公演を同日開催した後の電話反省会(?)にて、次のようにおっしゃられたこともまた印象的で記憶に残っています。

「いつもは途中で水なんか飲まないんだけど、今日は何故か飲まないと辛くなってしまった。何故かを考えたらいつもは途中でMCを入れるけど、今回は一時間ずーっと聲を出したからだと思う」

白石かずこ氏は「学校」、
伊藤比呂美氏は「道場」、
天童大人氏は「聲の砥石」、
とこの「詩人の聲」を呼んでいらっしゃいます。
つくづくわたしもやはり、

「聲ノ道」は「武道」であり、
「表現すること」「聲を撃つこと」は

--「祈りの一つ、神に行きつく一つの道」(バルテュス)
だと、確信しています。

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