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荘子、臨済、ニーチェ── ブラック三人衆

冗談が通じない人には、荘子や臨済、ニーチェの言葉の真意を理解するのは難しいでしょう。彼らの言葉は半分が真剣であり、半分が冗談だからです。嘘と冗談の大きな違いは、冗談が聞き手にそれと分かるよう、あえて大げさで極端な話し方をする点にあります。しかし、ときには真顔で冗談を言うこともあるため、冗談が通じない人はそれを真に受けてしまうことがあります。

ニーチェは『この人を見よ』で自身を「なぜ私はかくも賢明であるのか」「なぜ私はかくも頭脳明晰であるのか」「なぜ私はかくも良い書物を書くのか」と表現していますが、これも真顔での冗談です。彼は読者に対し、「私の過激なユーモアについてこれるかな?」「すべてを鵜呑みにしてはいけないよ」「私は君たちを欺いているかもしれないし、嘘をついているかもしれないよ」と挑発しているのです。

諸君、わしの言葉を鵜呑みにしてはならぬぞ。なぜか。わしの言葉は典拠なしだ。

『臨済録』「示衆」

まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。

『ツァラトゥストラ』「贈り与える徳」

だが、かつてツァラトゥストラは君にどう語ったというのか。詩人は噓をつきすぎると語ったのか。──だがツァラトゥストラも詩人の一人だ。

『ツァラトゥストラ』「詩人」

同様に、臨済が仏像を焚き火にしたのも、荘子の話が極端に壮大なのも、読者の注意を引くためのテクニックであり、固定観念や小さな思考の世界を破壊するためのものと言えます。彼らはブラックユーモアを愛する人々ですので、過激な行動や大げさな表現に出会ったときは、その言動にとらわれるのではなく、ユーモアを楽しみながら、背後に隠された真意を読み取る必要があります。彼らのユーモアに満ちた著作は、真面目に受け取られることを拒む存在でもあります。また、彼らは、自分たちの住む「世界の外側」へ飛竜に乗って遊びに来るようにとも呼びかけています。

北の彼方、暗い海に魚がいる、その名を鯤(はらご)と言う。鯤の大きさのほどは、何千里(一里は約四〇〇メートル)あるのか計り知ることができない。やがて変身して鳥となり、その名を鵬(おおとり)と言う。鵬の背平は、何千里とも計り知ることができないほどだ。一度奮い立って飛び上がると、広げた翼は天空深く垂れこめた雲のよう。この鳥が、海のうねり初める頃、南の彼方、暗い海に渡っていこうとする。南の暗い海とは、天の果ての池である。

『荘子』「逍遥遊」

斉諧という人は、不可思議に通じた者であるが、彼も次のように言っている。「鵬が南の暗い海に渡っていくありさまは、三千里(約一二〇〇キロメートル)に及ぶ海面を激しく羽撃ち、つむじ風を羽ばたき起こして九万里(約三万六五〇〇キロメートル)の高みに舞い上がり、ここを去って六ヵ月飛び続け、そうして始めて一息つくのである。」

『荘子』「逍遥遊」

小さな知恵は大きな知恵に及ばないし、短い寿命は長い寿命に及ばない。何でそれが分かるのかと言えば、朝菌(茸の一種)は一ヵ月を知らないし、蟪蛄(蟬の一種)は一年を知らない。これが短い寿命の例である。楚(南方の国名)の南に冥霊という木があり、五百年を春とし、五百年を秋としている。大昔には大椿という木があって、八千年を春とし、八千年を秋としていたとか。ところが今日、人間界では長寿と言うと彭祖(伝説上の長寿者)ばかりが名を知られ、大衆はこれにあやかりたいと願う。悲しいことだ。

『荘子』「逍遥遊篇」

藐姑射(はこや)の山(神話上の山)に、神人が住んでいる。肌は氷や雪のように白く、体のしなやかさは乙女のようだ。穀物は一切食べず、ただ風を吸い露を飲み、雲気に乗り、飛竜を操って、世界の外に遊び出ていく。彼の霊妙なエネルギーが凝結すると、あらゆる物は傷病なく成長して、五穀も豊かに実るのだ。

『荘子』「逍遥遊篇」


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