学びのゴールなんてどこにも存在しない(別題:無限の迷宮へようこそ)
魚釣りに行っても魚は釣れないかもしれないし、釣れるかもしれない。でも魚釣りは自然を相手にしている以上、結果がどうであれその理由はわからないし、そんなことを断言することはできない。
ところが子供を相手にすると、自分の望まない不適切な行動をとった時に、ともかくそれを潰そうとする。無事その行動をやめさせることに成功すると因果関係を見出し理由を見つけて断罪する。特にその場にいない人を理由にすることが多い。たとえば、「また○○ちゃんのせいね」とか「親がさっさと帰らないからだ」といったものである。
これは本当なのだろうか?たまたまうまくいった結果という現在の時点から、過去に遡って因果関係を決定してるだけにしかすぎない。そこに隠れている子供の真意など全部叩きつぶしてるだけである。このような人達には子供の話を聞くことは無駄と考えているのかもしれない。子供がいってることは正しくなく、聞いても問題など解決しないと考えているのだろう。
でもそれは違う。子供の発している言語・非言語のコミュニケーションすべてになにかの目的がある。それはノイズとして自分に向けて発せられてるものも含めて受け取るかどうかだ。もしかしたらノイズこそもっとも大事なものが含まれているのかもしれない。だから子供の話を聞くことは最も大事なことなのだ。
さらにいえば、子供は教育者がおもっているよりももの凄く賢い。だから、相手に応じて対応を変化させている。多くの教育者はそのことを無視する。そしてその変化を自分達に都合のいいように解釈する。これは別な尺度があることを認めていないということだ。これじゃ教育の目的など存在せず、自分達に都合のいい人間を作ろうとしているだけだ。
そのような教育で連れて行った先は、「通常のゴールでない『ゴール』」なだけで、そこに学びなどないわけだ。なんとか型学習とか耳障りのいい教育方法などどうでもいい。学びの種はどこにでも転がっている。自分のコンテキストの外にいる人達の尺度を相互に認めながら、世界を眺め続けることことでその種を見つけることができるのだ。
自分がいないコンテキストの世界は別に敵ではない。ただ違うコンテキストのコミュニティーで暮らしているだけだ。そのような人達とお互いなんとなく良い日々をすごすためのコミュニケーションこそ毎日楽しくすごせるのである。別に釣りが坊主(まったく釣れないこと)だからって世界は敵じゃないんだ。単に今日は釣れなかっただけなんだ。その見方を取り入れることで学びは無限に広がっていくのだ。
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