テキスト表現は自己共感力をたかめる
先月の身体文章塾は参加人数が多い回があって、多様な人たちが参加してくれたのが楽しかった。
常連の参加者にも刺激になったようだ。
オンラインでの常連の知念さん(沖縄)や奥田くん(小金井市)をはじめとして、岐阜や長野からのオンラインでの参加者、国立・春野亭の現場にはゼミ生の良輔くんが来てくれたほか、元ゼミ生でいまは大阪在住の照井数男くんも遊びに来てくれたりした。
野々宮卯妙も参加したし、私も作品を提出したので、多彩な顔ぶれと作品が集まってにぎやかだった。
身体文章塾では小説やエッセイを書く参加者が多いが、それにかぎらずなにかを書くという行為は自分自身を丁寧にとらえる必要がある。
というより、自分自身をどれだけ丁寧にとらえることができるかが、テキストのクオリティを左右する。
自分への注目が雑だと、テキストのクオリティはそのようなものになる。
やっかいなのは、自分を雑にあつかっていても、クオリティの高いテキストは書けるということだ。
テクニックを駆使し、外部情報や論理を展開して、質の高い読み物を書くことはできる。
が、そこには「自分はあらわれていない」。
身体文章塾の目的は「テキストで自分自身を表現し人に伝える」ことだ。
書かれたテキストに自分があらわれていることをめざす。
これをことばで——まさにいま私がこうやって書いているようなことだが——説明するのは大変難しく、やっかいだ。
前提として、まず「自分自身に気づきつづけている」ということが必要となる。
いいかえれば、自己共感が大切だということだ。
自己共感、すなわち自分自身に注目し気づきつづけていることができるかどうかは、書かれた文章から読みとることができる。
通常、なにかを読む人は、そこになにが書かれているか、どんなお話なのかに注目してしまうが、私はそれがどう書かれているのか、そこには書き手のどのような身体が映し出されているのかに注目する。
じつはそのことが文章の表現クオリティを大きく左右するのだ。
そのように私は現在、確信している。
なにかを書くことは、自分自身に気づくことであり、また自分を知ることでもあり、それを表現するという自分を発揮することへのチャレンジでもある。
現代ではさまざまな表現手段があるが、ことばを用い、それを書いて伝えるという、古く不自由な手段に挑戦することは、とても興味ふかい方法だと感じている。