いちばん声の小さい人の声を聞く
共感強化練習会に参加してくれたある人から、こんな気がかりを聞いた。
若い人たちを指導する機会があるのだが、どうもみんな、お互いに気遣いをしすぎて、本音が出てこない。
つながりが薄く、表面的な意見であたりさわりなくやりすごしているような気がする。
とくに引っ込み思案の人はその人がなにをかんがえているのか、なにを求めているのか、いまどんな気持ちなのか、居心地がいいのか悪いのか、なかなか表現してくれず、こちらももどかしい思いになる、という。
そういう傾向はたしかにあるように私も感じる。
失敗や対立をおそれるあまり、自分の意見をひかえる、本音をいわない、みんなの顔色をいつもうかがっている、あたりさわりのないことしかいわない。
しかし、ずっと一生、そうやってすごしつもりなの?
私が提案したのは、もっとも弱気で声が小さい人をまずケアしてはどうか、ということだった。
といっても、その人に迫るのではなく、さりげなくよりそって共感する。
その人のニーズを推測し、なにか気になっていることがありそうなら訊ねてみたり、必要なことがありそうだったら確認してみる。
その態度はグループ全員が見てくれているだろう。
全員がもっとも声の小さい人の声を聞こうとするとき、全体に注意深さが生まれ、まとりが生まれる。
私が稽古している武術でも、もっとも実感のない部分に注目することで、身体全体のまとまりと働きが生まれる、と教えてくれる。
それと似ている。
かつて私が現代朗読の群読ステージを演出したとき、参加者が10名くらいいた。
とてもはきはきと読める人もいれば、大きな声を出せない人もいた。
積極的に堂々と舞台に立てる人もいれば、おずおずと自信なげになってしまう人もいた。
それを見て、私はもっとも声の小さい、自信なさげな人を、群読のリーダーに指名させてもらった。
本人はびっくりしたが、それで全体にまとまりが生まれた。
全員が注意深くその人の声を聞こうとし、協力的になり、お互いに思いやりを持ってひとつの表現を作ろうとした。
そのときのステージは本当にすばらしいものだと、いまでも私は思っている。
豊かな経験を私もさせてもらった。
豊かな経験をするためには、かそけき声に耳をすます必要がある。
注意深く、全身でなにかを受け取ろうとするとき、たくらみを超えたなにかが降りてくる。