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エッセイ / フィルムカメラのよさを語ろうか

半年くらい前に、フィルムカメラを買った。「Rollei 35S」という、ドイツ製のなかなかいいやつを。とはいえ私はカメラに詳しくないので、友人が持っているのとまったく同じものを買っただけなのだけど。

正直ノリと勢いで買ったフィルムカメラだったが、買って本当によかったと思う。私はもともとデジタル一眼で写真を撮っていたが、フィルムとデジタルとでは、得られる体験がまったく違うのだ。

フィルムカメラは、一度に撮れる枚数が限られている。フィルム一本分で、だいたい24枚か36枚。さらにフィルムは一本1500円弱、それを現像するのにも一本につき1500円弱かかる。

だから自ずと、一枚一枚を大切に撮る。どんなにいい景色を前にしても、狙いすませて、ここぞって時にだけ撮る。だからこそ、自分がどこでどんな写真を撮ったかが、ちゃんと記憶に残るのだ。

フィルムカメラは現像するまで、自分が撮った写真を確認できない。それでも、「あの時、こんな構図で写真を撮った」という記憶、言わばスクリーンショットのようなものが、頭の中に残っている。

スクリーンショットのように鮮明な記憶が残るのは、きっと渾身の一枚を撮るために、目の前の景色をよく観察しているからだ。例えばひまわりを撮ろうというときには、「このひまわりが一番美しく見える角度は一体どこだろう?」「日の光は、どこから当たってきているだろう?」といったことを考え、ひまわりや、それを照らす日光、そしてその後ろにある雲などをよく見たうえで、写真を撮る。

そう考えると、「フィルムカメラで写真を撮る」という一連の行為は、目の前の一瞬を、景色を、集中して余すことなく味わう営みだと言えるのかもしれない。ひまわりや日光、雲の美しさを、ちゃんと見つめ、噛みしめる営みだと言えるのかもしれない。

去年自給自足の修行をしていたとき、師匠から「写真を撮るときは、パシャパシャ何枚も撮るもんじゃない。同じ景色の写真は、1枚だけ撮ること。ここだ、という瞬間に1枚だけ、撮るんだ」と言われていた。ていねいで豊かな暮らしをするためには、そういう姿勢が大切なんだと。

当時は、その言葉の意味がよくわからなかった。私はごくたまに、インタビュー記事用の人物写真を仕事で撮影することがあったが、その際には(自分の技量への自信のなさもあって)なるべく多く撮ったほうがいいものが撮れる確率も高いと思っていた。いわば「数撃ちゃ当たる」戦法だ。日常生活でも、デジタルカメラやスマートフォンで、ちょっとでもいいと思ったものはすぐにパシャパシャと写真に収めていた。

でもその結果、カメラロールやハードディスクには二度と見返さないような、撮ったことさえ忘れてしまったような写真が山のように格納されているし、仕事で撮った人物写真も、何十枚も撮って結局使うのは一枚だけ、なんつうのはいつものことだった。

一方で狙いすませて渾身の一枚を撮ると、写真という成果物が手に入るのにとどまらず、ある情景が、その時の思い出が、自分の記憶のなかにしっかりと刻み込まれる。それは当然、自分の人生が豊かになっていくことにもつながるだろう。撮ったことさえ忘れてしまうような写真を山のように貯めこむことよりも、よっぽど。

「写真は、ここぞという瞬間に1枚だけ撮るんだ」。そんな師匠の教えを、私はフィルムカメラという、必然的に一枚一枚を大切に撮らざるを得ないツールを得てはじめて実践できた。そして、師匠の言っていたこと──ていねいで豊かな暮らしをするには、そういうスタンスが大事だってことも、ようやく理解できたのだった。

なんて偉そうにフィルムカメラの良さを語る私が、先日撮ったひまわりの写真がこちらです。ご覧の通り、ピントが合っておらずボッケボケ。フィルムカメラでいい写真を撮る修行は、まだまだこれからといったところです。

白川郷の合掌造りの家の横に一本だけ高く生えていたひまわり。家屋の茶色と、ひまわりのオレンジと緑、空の青という色の組み合わせがとても美しいと思った。


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