人としての正しさ
私はここ一年半、葛藤してきたことがある。弱音、愚痴、思っている事、疑問を言うことについてだ。
色んな人から、こう言われた。
「誰があの人はこう、この人はこう、と噂をするけど、“自分の目で見て感じたことが一番だからね”。」
「人づてに聞いたことって、絶対その人の解釈が入ってしまっているから、誰がどういっててもその人の解釈が入っているよ。」
「誰に何を話してもいいけど、その人が言いふらさないとは限らない。誰に何を話すかは○○さん自身が決めることだよ。」と。
だから、私は「何も話さないことがいい」と判断した。
辛いことも、嫌なことも、おかしいと思ったことも。
私の主観を話せば、周りの人の解釈を変えてしまう。それは良くないことだと思ったからだ。それに、怖くて言えなかった。
その姿勢を一年間貫いた。
何がどう伝わるか分からない怖さから、話すことを避けて過ごしてきた。
一年間貫いた結果、「話せる人」がいた人と、私のように「話せる人」がいなかった人で差が出ているように思う。
この10日で色々あり、「話せる人がいる」人の話を聞いた。
「組織の将来や周りの人のことを考えた時に、おかしいと思ったことや疑問に思ったことを言える強さも持つとより良いと思う。従うこともやるべきことだけど、従うだけが良い事ではないよね。あれ?と疑問に思った事、沢山あると思うけど、それを言える人がいると良いよね。ちょっと年の離れた人達とは感覚が違うから、同世代の人が疑問に思ったことを受け止められることが出来るのは、私たち同じく同世代の人だよね。他の子たちが疑問に思ったことを聞いて、そうだよねって共感するだけでもその子たちは安心したりほっとしたりするよね。」
という言葉を聞いて、私はこの一年間貫いてきたことは何だったのだろうと思ったし、私が正しいと思って貫いたことは間違いだったのかなと、大きくショックを受けた。
その人の言葉は突っかかることなく心に入ってくるし、その人が良く口にしていた言葉もそういう意味だったのかと納得した。
助けを求めるように「大丈夫?」と話しかけてくれて、愚痴を沢山吐いていた人のことも正直「私の方がつらいからな」と思ってしまっていた。けど違うよね。その子たちの話を聞いてあげて、それとなく「そうだよね」と言うだけでも違う。私はそういう風に接するべきだったのだな。
凛々しくて強くて優しいその人のようになりたいと、影響を受けやすい私はそう思ったし、そう思う。誰かを指針にしようと思った時に、どの人が一番指針になるかは、最初から明確、その人だ。
だったら、もっと早く言ってくれたら私も気づけたのになと思うことは沢山ある。それはもしこうだったらこうすればという後から気にしても仕方がない事なので、何もできることは無いけど。
一年間の月日は自分にとって大きいものだった。
「話せる人」がいる状況があったのであれば、私はもっと早く楽になれたし、強く言うこともできたのに。早く楽になりたかった。
色んな人の意見を聞いて、全員に平等に接することが正義だと思ってたし、それを意識していた。それももちろん大事なことではあるけど、「自分の心の声」に蓋をしないで、辛いこと、嫌な事、苦しい事、疑問に思ったことを言える相手を作る強さも必要だったのだなと思う。
これがタイトルにある人としての正しさの正解かは分からないが、今自分自身が思っている正しさはその人が言っていたことだと思う。
もちろん、「言わないべき」と判断したら言わないことも正しいと思う。
そして、色んな人の意見を聞いたり、色んな人に対して態度を平等に接したりする事は正しいと思う。
人として、どういう言葉遣いをするべきか、どういう態度を取るべきか、どういう言動をするべきか、これからも考えながら過ごしていきたい。
人として正しい事をしていたい。
なぜ色んな人に平等にするべきか、私の辛いことは何だったのか…等、不十分過ぎる位一部分の話のみしか書いていないですが、大まかな気持ちと流れはこのような形です。
読んでくださりありがとうございます。
冬譜
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