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「今年の抱負」をきっかけに

小学生の頃、冬休みの日誌に必ずあった「今年の目標」を決めるページに、私はいつも「早寝早起き」や「風邪をひかない」などと書いていたような気がする。
ここ数年は、子どもの冬休みの宿題を見ながら、どんなことを書くのかと何気に見ることもあり、私の小学生の頃と大して変わらないなぁと笑ってしまう。

進学や就職、転居などが伴う4月であれば、周囲の環境も変わり、新たなステージでどうありたいかとイメージしやすい。けれど年始にはそれがない。
365日のうちの1日に過ぎないとすら思っていた時期もある。そう思っていた頃の私は、大晦日や元旦には休みのない飲食店勤務をしていた頃の私だ。とにかく倒れないようにしようとばかり考えていた。

それでも、元旦には近くの神社に足を運び、手を合わせたものだ。

そんなことを思い出しながら、「今年の抱負」を決めるという行為には意味があるのだと、改めて感じた。

何も変わらない、いつもどおりの日常中で「できるなかったことをやれるようにしよう」「仕事に対して気持ちを新たにしよう」など、決して思わない。
日常の中で、自分を見つめ、こうありたいと思うことはあまりない。自分を変えたいとどこかで願いながらも、ただ流されるように日々を過ごしていくことはあまりにも多い。
先に述べたように、周囲の環境が変わることが強制イベントとして進んでしまうのならば、そこに適応するためにも自身を変えようとも思う。思わなかったとしても、新しい環境の中での自分の立ち位置を確保するために動く。
けれどそれは、周囲に流されて自身を変化させるものであって、内面的な変化を自身の意思で行うのではない。

それとは異なり、「今年の抱負」は、自分で考え、自分の意志で、自身の定めたモノへと目を向けなければいけない。
具体的に目指すものがある人は、気持ちを新たに締めなおすことができる。
具体的な事柄が浮かばなかったとしても、「弱音を吐かない」「趣味を見つける」「やったことがないことをやる」など、自己啓発につながる何かを意識することができる。

大きなことは言えずとも、今年はどんな風に過ごしたいか、そのためにはどうするべきかを考えるきっかけとして、「今年の抱負」は決める意味がある。

昨年の私の抱負は「心の体力をつける」だった。
実際、数値化することが出来ない目標だったけれど、凹みそうな時に感情的にならずに済んだ場面はいくつもあったので、まずはOKとしよう。

さて今年は、昨年以上に大変な一年になるであろうと、大体の予測はしている。個人的な親族がらみの環境の変化によるものだ。昨年と続き、心の体力を維持しつつ、それらの環境の変化に惑わされたり、振り回されたりせずに、自身の足でしっかりと立っていようと決めた。

新年の抱負として一言でいうなら「周囲に流されず、自分の意思を明確に保つ」といったところだろうか。
はたしてこれが抱負と言えるのかどうかも、自身はないけれど、そんなイメージで行動していこうかなと、そう思う。

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