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転校先の小学校でいじめられた話

自己紹介


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あらすじ

小学生2年生の時僕はいじめられていた。当時の僕はその自覚がなかったが、小学2年生当時の話をするとそれはいじめられていたんじゃないかと、言われることがある。大人になった今振り返ると、たしかに僕はいじめられていたような気もする。

今回は僕がいじめられていた時の話をしていこうと思う。

廃校と転校

僕が入学した小学校は生徒の数が非常に少なかった。周りの小学校は全校生徒が1000人に迫ろうという数があるのに、僕の通っていた小学校は170人程。だから僕が小学校に入学した年には廃校の危機にあった。

なにせ担任の先生が1年生の6歳達に向かって、この学校はなくなるかもしれませんと入学早々に話すくらいだったのだ。先生はこう語った。

「この学校の生徒の数は非常に少なく、来年入学してくる新しい一年生の数によっては廃校になってしまいます。でも数が多ければ廃校にはなりません」

たしか僕の代の1年生は生徒の数が少し多く、38人程だった。他の学年と比べると生徒の数が多い。僕の代と同様に次の1年生の入学数が多ければ廃校が免れるという訳だ。

僕が2年生になって廃校の有無を決める1年生の入学数があらわになった。新しい1年生の数は22人程。僕の代と比べて大きく入学数は落ち込み、こうしてあっけなく僕の通っていた小学校の廃校は決まった。

廃校が決まった年は通常と同じように学校が運営され、翌年に廃校という流れだった。つまり僕たちの代で説明すれば、小学校2年生はこの学校で過ごすことが出来るが、3年生に上がる時には転校しなければいけないということ。

僕の通っていた小学校の近くには別の小学校が2つ程あり、廃校後はそれぞれの生徒は自分の住む家から近い学校へと転校する。全生徒が同じ小学校へと転校する訳ではなく、場合によっては仲の良かった友達と離れ離れになってしまう。

さて僕の通う小学校が廃校になってしまったことについて説明してきたが、実は僕が転校した理由は厳密にいえば廃校ではない。ここで少し話がずれる。

僕の住んでいた家はとても小さいアパートで母は引っ越しを考えていた。だから実際に僕が小学2年生の時アパートから引っ越しをしたのだが、引越し先は元々住んでいた小さいアパートから500メートル程度の場所にあった。

その500メートルという微妙な距離の引っ越し先は僕の通っていた小学校から学区外の場所。しかしこの程度の距離ならば学区外であったとしても、元々通っていた小学校に通うことも出来た。けれど僕の通う小学校は翌年廃校になり、いずれにせよ転校することになる。

今通っている小学校に通い続け翌年に転校するか、早めに転校して新しい学校に慣れておくか、母親から2つの選択肢を与えられた。僕と僕の一つ上の兄は、新しい学校に早めに転校することを選択。

僕と兄の意見は一致したが、どちらか一方が最後まで廃校になる小学校に通い続ける選択を選んでいたとしたら、同じ住所に住んでいるのに兄弟がそれぞれ別の学校に通うというキテレツな様になっていただろう。

今考えてみるとこの選択は間違っていたと反省している。廃校後に転校すれば、僕と同じ境遇の人間と同時に転校が出来る。100人がまとまって転校すれば、僕は1/100の存在でありそんなに目立つことも浮くこともない。それに転校しても、友達が既にいるという環境はとても心強い。

普通に考えれば最後まで廃校になる小学校に通い続けた方が良い訳だが、当時7歳の僕はそこまで考えがまわらず間違った選択をしてしまったという訳だ。

新しい小学校

転向初日、新しいクラスメイトの前で自己紹介をする僕。新しいクラスメイトのほとんどが僕に注目しているのが目線や表情から分かる。けれどポジティブに歓迎されているとは思えなかった。クラスメイトの多くは僕のことを疑わしい目で見てきていた。

田舎へと引っ越すと、昔からその土地に住んでいる人から嫌がらせを受けることがあるという話を聞くことがある。世の中にあるコミュニティの中には新参を毛嫌いする人が古株が存在することもある。僕が入った新しいクラスはまさしくこのような体制であった。

またその家庭にはその家庭独自のルールがあるように、そのクラスにはそのクラス独特のルールがあることかと思う。僕が入った新しいクラスにも独自のルールがあったのだが、転校初日そのルールについて誰も教えてはくれなかった。

このクラスでは給食の時間給食をよそう係と配る係あった。そしてどちらの係にも属していない人は全員の机に昼食が行き渡るまで本を読まなければいけないという変わったルールがあった。加えて本を読んでいるか監視するような係もあった。本を読んでいない人間は黒板に名前を書かれるのだ。

そして二度名前を黒板に書かれると、その日の給食のおかわりが出来ない仕組み。子供の読書量を増やそうという意図で担任の先生が作ったルールだと思うが、僕はこのルールのことについて誰からも説明されていなかったから、転校初日の給食の時間困惑した。

給食が配り終わるまでは係の人も読書をする人も言葉を発するのを禁止されていたのだが、誰かしら融通を利かせて僕にルールについて教えてくれても良かったと思う。

そもそもの話、担任がそのルールについて前もって僕に話しておくべきだったのだ。そのルールについて説明するのを忘れていたのか、担任からも説明を受けていなかった。

なぜクラスメイトは給食をとりにいかず読書をしているのか?どうしてみんな何も喋らないのか?どうしてひたすらずっと黒板に僕の名前を書いてるやつがいるのか?

初めて迎えた給食の時間は謎ばかりであり、どうして僕の名前を黒板に書いているんだい?と聞きにいくと、そのクラスメイトは僕のことを無視しまた僕の名前を書き続けた。

どうやら僕が本から目を離している時間が一瞬でもあれば名前を書く仕組みだったようで、だからこそ本を全く読んでいなかった僕はひたすらに名前を書かれていたそうである。

黒板の前に立っていた監視官役のクラスメイトは先生から言われたことを忠実に守っていただけであったが、そんなことを知らない僕は心底腹が立った。

てめえ人の名前をずっと黒板に書き続ける気持ちの悪いことをしていて、俺が質問しても無視かよ、と僕は憤った。そして読書監視役をぶん殴った。

こうして転校初日にしてクラスメイトからの僕の印象は、ルールを守らない上に罪のない監視官を殴ったならず者となった。

ここまで書けば何となく伝わっていることだと思うが、暴力や私物を隠される類のいじめではなく、僕が受けたいじめというのは村八分的ないじめである。

正直な話僕はクラスメイトから殴られたことはなかったし、むしろ僕の方がクラスメイトのことを殴っていた。そして僕からクラスメイトのことを殴る度に腫物扱いをされ、孤立していった。

クラスメイトの複数人が僕の行動をひたすらに監視して、何かささいなことでも問題があるとすれば、全て先生に報告。

例えば授業の最中、勉強している箇所ではなく、その先のページを少しめくっただけで

「先生!こいつちゃんと教科書読んでないです!」

という具合である。

当時の僕は僕が人を殴っていたのだから、僕がいじめられているという自覚はなかった。けれど振り返ると僕は手を出すものの、人数でいえば1対10くらいの構図であった。30人クラスで僕のことを嫌っているのが10人もいたのだ。その10人が僕に対して言葉による攻撃、先生に報告するという攻撃などを行ってきていたのである。

転校した時に受けた出来事を人に話したことが何度かあったが、その内の何人からか、それはお前がいじめられていたのではないかと言われた。大人になって考えると、たしかに僕はいじめにあっていたのかもしれないと、ようやく気づいた。

駐車場

転校してから一か月ほど経った時、家を出たもののどうにも学校に行き気にはならず、まっすぐ進めば学校へ行く道を左へと曲がった。どこへも行く宛てはなく、歩くのも面倒だったので知らない駐車場へ入った。

学校へ行くはずの子供が駐車場にいるとなれば、大人が声をかけてくるかもしれないと思い、僕は駐車場で隠れるように過ごした。駐車場の隅へと行ってみたり、車の下に隠れてみたり。

みんなが学校にいる時間、一人だけでかくれんぼをしている気持ちだった。人の気配があまりしないなと思うと堂々と大の字になってみたりもした。その日の天気はとても良かったから、地面に体をつけても汚れなかったのが幸いだった。

母からしてみたら僕は学校に行ったはずの認識で、先生からすれば僕は学校には来ていない。もしかすると先生の方から自宅の方に電話がかかっているのかな。帰ったら怒られるのかな、でも学校には行きたくないし、なんだか駐車場で一人で過ごすのも悪くないし、毎日ここにいてもいいくらいだな。この駐車場全然人がこなくて、居心地良いし。

でもお昼ご飯はどうしよう。昼に家に帰るわけにもいかないし、でも僕はよく食べる方だからご飯ないのはつらいし。そんなことを寝ながらぼんやり考えていると、僕に声をかけてくる人がいた。

40歳くらいの背の高く細い女性だった。その時僕はたぶん動揺したはずだ。あまり記憶がないが、どうしてこんなところにいるのと聞かれたはず。僕は正直に事情を話したと思う。女性は僕のことを学校へ連れて行こうとした。僕はその女性に手を引っ張られるような格好で学校へと連れていかれることになった。

正直この女性がどんな存在だったのかはよく分からない。学校の関係者があの時間校外にいるとは考えられない。とすれば学校の人間ではない人物だったのだろうか。ランドセルを隣において寝そべっている僕を見て、心配したただのおばさんだったのだろうか。

学校が近くなって、学校の校門が目の先までやってきた時、その女性はもう僕が逃げることはないだろうと思い握っていた僕の手を離した。しかしどうしても学校へと行きたくなかった僕。

そもそも学校に行きたくないのに、遅刻したとなれば遅刻した事情を聞かれ面倒なことになるに決まっている。握られていた手を離された僕はすぐさま振り返って全力で走って逃げた。後ろは振り返らなかった。僕は足が遅かったから大人が全力で走ればすぐに捕まるはず。きっと僕がそこまでして学校には行きたくないという気持ちを汲んでくれたのだろう。女性は僕の後を追ってくることはしなかった。

そこからはさっきの駐車場に戻る気にもなれず、家へと帰った。運が良くきっとかかってきていたはずの電話に母親は気づかなかった様子。今日は学校が早めに終わる日なんだとだけ伝えて何とかやり過ごした。それなら僕の一つ上の兄も家に帰ってくるはずだし、外には下校する子供もいなく、不自然な言い訳だったが、母親は何も言ってくることはなかった。

担任の先生

僕がクラスに馴染めず村八分にされていた理由の一つには担任の先生にもある。転校生がクラスに馴染めるように工夫するのが担任の先生の一つの仕事だろう。なのに先生ときたら給食のルールやクラスの細かいルールなどについては教えてくれなかった。きっと忘れていたのだろう。

転校初日から何だかこの先生は変だなあという印象だった。僕は転校初日の夜家族に担任の先生の話をした。50歳を過ぎているおばさんで、名前が勝間という変わった苗字、喋り方の特徴や帰りの会にベルを鳴らすことなど色々話した。すると僕の6つ上の長男が言った。

「それ俺の昔の担任だよ、あいつ頭おかしいからやばいよ」

母親は登校初日の前、事前に担任の先生と話していたから、以前の長男の担任と同一人物だったのは知っていた模様。なら最初から教えておいてくれよと思った。

また転校して少し経った後、勝間先生の方も僕がかつての教え子の兄弟ということを把握しており、また僕の兄のこともしっかりと覚えていることを知った。僕と長男は父親の血が違い、性格も見た目も似てはいなかった。お前は本当に兄とは違うな、兄はもっと大人しく利口だったぞ、僕は勝間先生に何度もこの言葉を言われた。

僕は兄と血が違うことを全く気にしていなかったから良いもの、そういったことに敏感な性格の持ち主だった場合どうしていたのだろう。勝間先生にはデリカシーがなかったのだろうか。

そしてあいつは頭おかしいよと言った兄の言葉。たしかに勝間先生には快い印象をあまり持てなかった。一番キテレツに感じたのは体育の授業だった。体育の時間に勝間先生が考案したスポーツを何度が行ったことがあったのだが、これが当時7歳の僕から見ても危険だと分かるスポーツだったのだ。

まずクラスメイトを紅組と白組で分ける。紅組と白組はそれぞれ円の形になった陣を持っており、その陣の中心にはボールが置かれている。紅組と白組がそれぞれこの陣の中心に置かれたボールを守り、また相手のチームのボールを力づくで取りにいくという内容であった。

ボールを力ずくで取ろうとするから、当然体の接触が起きる。そして当然怪我人が出た。結局3人怪我人が出た。一人出た時点で中止にするべきだったのにも関わらず、このスポーツは複数回の授業に渡って続けられ結果怪我人が3人出た。止めるのがあまりにも遅すぎる。

もし誰かの親がことの詳細をしり教育委員会に報告していたら、きっと僕の担任の先生は何かしらの処分が下っていたに違いない。勝間先生は50を過ぎていたが、はたして本当に30年間も教員を勤めてきた人間だったのか、はなはだ疑問である。

また僕は勝間先生に好かれてはいなかった。これは仕方がないといえば仕方がない。聞くところによると新しい転校生が入ってくるとなると、以前の学校の担任がその転校生の情報を転校先の学校に伝えるそうだ。その子供の性格や人となりを前もって伝えておくことで、どのクラスに入れるのが適任か、どのように接するのかについての参考になるそうである。

きっと僕の以前の担任の先生が勝間先生に伝えたのは酷い内容だったのだろう。僕がろくでもない人間だったから仕方がないのではあるが。

しかし、そういった学校間での情報の伝達もむなしく転校して間もなくして僕はクラスメイトの多くと対立することになり、朝先生が職員会議で教室にいない時間は毎回喧嘩を起こすようになる。毎日毎日問題を起こす僕を教室に置いておく訳にはいかない。そう判断した勝間先生は朝の職員会議の時間は僕を教室にいさせないことにした。勝間先生は僕の仕事を与えたのだ。

例えば冬には各教室にはストーブが置かれており、灯油が少なくなってくれば新たにその教室まで灯油を持っていかなければならない。僕は体育館の裏辺りにあると倉庫から灯油もって各教室に配るようになった。

灯油の補充が不要な日には、どこかの掃除を命じられたりと雑務を行うようにと命令を下された。意外にも僕はこの雑務を丁寧に真面目にこなしていた。いけ好かない連中がいる教室よりも、一人でいた方がよっぽど良かったからだ。

また転校してしばらくすると僕からは昼の休み時間が消えた。長い休み時間僕を一人にしておくと問題ばかり起こすから、自由に行動させることができないと言われたのだ。だから僕は昼の休み時間は勝間先生といつも一緒だった。大体勝間先生と二人でトランプをしていた。いわば隔離のようなものである。

また僕の通ったこの時の小学校は週に1度掃除を行わない日があった。掃除の時間が休みの時間に置き換わる。だからお昼の休み時間が40分程度あったと思う。だから僕は勝間先生と週に1度は40分もトランプを二人でしていた。たまに将棋やオセロといったボードゲームもしていた。

学校の先生は忙しく、きっと昼休みにこなさねければならぬ仕事があったというのに、これを僕が暴れない為に問題を起こさない為に僕の為にだけに時間を費やしてくれたことについては、勝間先生に感謝を謝罪をしなければならない。

そして僕の自由の剥奪は朝の職員会議やお昼の休み時間だけには留まらなかった。周りにクラスメイトがいるとお前は問題を必ず起こすからと、僕の机だけが先生の机の横に置かれた。僕の横には誰もおらず、常に先生が前にいる。これだけ近くに勝間先生がいれば、さすがの僕でも問題を起こさないであろうという考えだったのだろう。

しかしそれでも、そんな状況においても僕は問題を起こすから、ついに僕は教室から追い出された。教室のドアの外に机を置かれ、廊下から黒板をのぞき込むような格好へとなった。教室にはいないのだからさすがに、クラスメイトと問題を起こしようもない。

隣のクラスにも僕と同じ扱いを受けている人がいて、言葉こそあまり交えなかったが、彼には強く親近感を覚えていた。お前も俺と同じく仲間外れにされているんだな、迫害された人間なんだなと、そんなようなことを心の中で呟いていた。

しかし暴れていたのは僕であり、追い出されたのにも僕に理由がある。これは迫害ではなく単なる罰といった方がよいかもしれない。

友達

僕は3年生に上がるまで結局クラスメイトとの多くとは折り合いが合わず争いばかりだったが、少数ではあるものの友達が出来た。

一番僕と遊んでくれたのはサッカー少年だった。といっても僕も少年だったのだが。サッカー少年の名前をもう覚えてはいないから、サッカー少年と記す。

おぼろげな記憶だが、サッカー少年も実は僕よりも先に転校してきていた転校生だったらしく、僕と同じような境遇だから親しくしてくれていたのかもしれない。

だから転校して最初に友達になったのはサッカー少年だったし、初めて放課後遊んだのもサッカー少年。快く僕のことを家にも呼んでくれた。サッカー少年の家は真新しい新築の一軒家。一軒家購入に当たって引っ越してきたそうだ。

サッカー少年の家は天井が吹き抜けになっていて、家の中に気持ちがいいくらい光が差していた。階段の作りも洒落ていたし、寝室にはベッドが4つも並んでいた。家族全員同じ寝室で寝ていたそうで、4つのベッドを置けるくらの部屋の広さなのだから、それはもうとても広い家だった。

キッチンはリビングを見渡せるような対面型の作りになっており、家全体が木の温もりで包まれているような趣があった。

サッカー少年には長男がおり、長男もまた友達を家に呼ぶから、僕がサッカー少年の家に行くと、必ず上級生もたくさんいた。けれど下級生上級生関係なく、混ざり合って遊び、一緒にテレビゲームをしたり、ゲームに飽きたらみんなで公園にいってサッカーをすることもあった。

またサッカー少年の母も優しい人で、サッカー少年の家にいくとそれはとてもとても豪奢なおやつを出してくれたのが思い出だ。

しばらくすると他にも友達が出来た。名前を忘れてしまったから、仮の名前で田口と記す。田口は終始鼻水をすすっているようなやつで、喋り方がどもどもしており、ふわふわしてる奴だった。

一度田口の家に遊びにいったことがあったが、田口には両親も兄弟もいなかった。祖母の家で祖母と二人で暮らしているとのことだった。祖母も年老いておりあまり家事もできない様子。古くさびついた家は散らかって色んなところがほこりを被っていた。遊戯王カードが床のあちこちに落ちており、洗ったのか洗っていないのかよく分からない服がこれもまたあちこちに散乱していた。

サッカー少年と田口の家では全く風情や雰囲気が異なっていた。こうして僕は7歳の時に資本主義社会を肌で感じたのであった。

けれど両親も兄弟もない田口は決して不幸そうではなく、むしろいつも幸せそうな表情をしていた。何一つ悩みも欲もなく、毎日平穏で過ごせればそれでいい。彼からはそんな価値観があるように見えた。

坊主頭

転校してしばらくするとサッカー少年や田口のような友達が出来たものの、僕がクラス全体から村八分にされているのには変わりなかった。

最初こそ大人数から無視されたりぞんざいに扱いをされることに怯んではいたが、転校して二か月程経った時にはもう全く気にしてなかった。

僕は昔から風呂に入るのが面倒な性格で、風呂に入るのを忘れ前日と同じ格好で登校したことがあった。僕を村八分にするクラスメイトはそれを見逃さない。一人の坊主頭のクラスメイトが僕が前日と同じ格好で登校していることを叫ぶようにいった。クラスメイトの目線が一斉に僕へと集まる。僕は走って坊主頭を殴った。

また別の日。僕は坊主頭のことを常々ハゲと言ってバカにしていたが、ある日親から坊主にすることを強制され、僕まで坊主になってしまった。人のことをハゲハゲと昨日まで馬鹿にしていた人間が、ハゲになって登校する日はさすがに心が怯んだ。学校には行きたくない、絶対にバカにされる。坊主頭がお前坊主になってんじゃねえかと馬鹿にしてきたので、うるせえハゲといってこれもまた僕は坊主頭を殴った。

僕は小学生に限ればそれなりに力がある方だったし、手を出すことに躊躇がない人間だった。僕に何か言えば絶対に僕が殴ってくると分かっているのに、どうして彼らは僕にいちいちつっかかってきたのだろうか、不思議である。

僕がいじめられたというタイトルで僕の転校した学校でのことを書いてきたが、手を出していることを考慮すれば、もしかすると向こうからすると僕がいじめっこだったのかもしれない。

つまり僕はいじめの被害者でもあり加害者でもある、重ね合わせの状態にあったのだろう。そして村の住人達もまた同様である。

そんな風にいじめの被害者と加害者が重なり合うよく分からない状態は結局クラス替えが行われる2年生の最後まで続いた。

今振り返ると自分の心が少しは逞しくなった良い経験だったと思う。いじめてくれてありがとう村人たちよ、そして殴ってすまなかった村人たちよ。

さて、今回はこの辺りで。

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