高校サッカーの功労者、小嶺監督の魂はこれからも続く
元国見高校監督。名将と呼ばれ、高校サッカーの時代を築いた小嶺忠敏監督が亡くなった。
小嶺監督は1968年に島原商業高校へ赴任し、1984年からは国見高校(2006年に定年退職後、2007年1月まで総監督)、2008年から現在に至るまで長崎総科付属高校と、約54年にも渡ってサッカー部の指導にあたったという。
わたしにとってもそうだが、世間的にも小嶺監督は「国見高校の監督」という印象が大きい。当時弱小だった国見高校を鍛え上げ、2006年度まで21年連続で選手権に導いた。1987年度に初優勝を果たし、戦後最多タイの6度も全国を制しているとんでもない強豪だ。大久保嘉人選手をはじめ、輩出したJリーガーはなんと30人以上。
残念ながら、わたしは国見高校の優勝やそのスターたちによる「国見フィーバー」をリアルタイムで体感した記憶はない。(直近の優勝でも2003年だから、当時小学校1年生…)
そんなわたしでさえ、小嶺監督は絶大な存在である。小嶺監督無くして高校サッカーは語れない。
小嶺監督は「鬼」だと言われるほど厳しいことで有名だった。ベンチに座るそのオーラは画面越しにも伝わる名将らしい迫力がある。
わたしが高校サッカーに惹かれる理由の一つとして、「選手たちの礼儀や人間性」を挙げている。学校スポーツたるもの、選手たちは徹底して相手や応援してくれている人へ敬意を示す。ピッチ上だけではなく、日常生活からかなり厳しく教え込まれるのだろう。
監督といえど、同時に教育者なのだ。これがプロとはまた違って面白い。
(これは100回大会の開幕戦 関東第一高校。強さもそうだが、礼儀の正しさが素晴らしかった。)
小嶺監督の数々の教え子たちは、小嶺監督に人間性を鍛えられたと口をそろえて言っているのが印象的だ。特に「過信するな」と、謙虚である姿勢を説いている。
80回大会(2001年)優勝、81回大会(2002年)準優勝/得点王、82回大会(2003年)優勝/得点王という伝説をつくった、平山相田選手はインタビューでこう答えている。
稲穂についてのお話なのは、ご実家が農家である小嶺監督ならではなのかもしれない。
また、平山選手が同インタビューで語っていた、80回大会優勝時に騒いでいたら小嶺監督に怒鳴られたという話も有名だ。
高校サッカーファンとしては、つくづく彼らの成熟している(ように見える)メンタルや立ち居振る舞いに脱帽する。ただ、10代後半にしてすごいことを成し遂げて天狗になってしまったり、逆に燃え尽き症候群のようになってしまうようなことがないように、小嶺監督は常に謙虚であることを説くのだろう。
高校サッカーが人生のすべてではないのだと。厳しい教えのように感じるが、「これからもっと実りある人生であるように」という教育者としての愛情なのだろうと思う。
小嶺監督のように厳しく指導をすることにエネルギーを注いでくれる教育者もなかなか少なくなっている。
熱く愛情を持ち最期までサッカーの指導をされた、高校サッカーにおける功労者だ。
---------
1/8 高校サッカー選手権大会の準決勝を観に行った。試合前には、小嶺監督の追悼番組が放送されていた。小嶺監督が立ちたかった第100回大会、新国立競技場の舞台で。試合前には黙祷が行われた。
わたしの最推し、青森山田の松木久利生選手は得点後に喪章を掲げていた。
(高校三年生にしてこの気遣いとこのアウトプットができるってすごい。)
そんな青森山田は、国見高校などの伝統校に続こうとしている。
国見高校がかつて樹立した記録、21年連続出場を塗り替えた。青森山田は今回で25年連続となる。
今回決勝進出を決めて、さらに国見高校の4年連続決勝進出という記録に並んだ。
青森山田の黒田剛監督は、小嶺監督についてこう語る。
小嶺監督が築いてきた歴史はこれからも無くならない。そして高校サッカーと小嶺監督の魂はこれからも続いていく。
小嶺忠敏監督、お疲れ様でした。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?