丸テーブルの部屋の中で
1月からずっと部屋の片付けと模様替えをしている。
棚2台を粗大ゴミに出すことで、部屋の地殻変動みたいなことが起きて、人生の振り返りみたいなことが起き、人の記憶ってものに結びついているなあと思ったり、思い出して泣いたりしていた。
過去のことで悲しい思いをしつつ、自分に足りないものや未来に向けてのイメージを補うことも考え初めて、その中で自分に最も足りない形として「丸テーブル」が浮かび上がってきた。
注文してからも結構時間がかかって、やっと到着した。
そしてなんとか組み立てまして。
丸テーブルの部屋になった。
私の中の欠損している部分は、丸テーブルのようなもののように思う。
後天的に努力で身につけた社交性やフレンドリーさ、人当たりの良さみたいなものは、欠損しているからこそ得たスキルであって、内面にはそれらが存在しない。
存在しない訳じゃないんだけど、それがとても傷ついていたり、つまり欠損している状態のように感じることがある。
痛みがある。
不自由さがある。
得られなかった、あるいはそれを壊されたような、悲しみが。
丸テーブルに座っていると、その欠損したものの輪郭をなぞるような不思議な感覚がある。
痛みはなく、ただそれがないことを知るような感覚。
それはとても悲しい。
悲しく、誰も立ち入れず、閉じていて、暖かく清潔で優しいけれど孤独。
古びた羊膜をかぶっているような感覚。
丸テーブルの曲線は、羊膜の感覚かもしれない。
私を許さない、でも私を守る。
私を助けない、でも私を守る。
愛とは、そういう形に表出することがある。
丸テーブルの曲線は、そのようなものを思い出す。
大切なのは、その輪郭の形ではなくて、そのテーブルの上で何があったのか、ということなのだけれど。
でも輪郭によって人は大きく受け取る印象を変えるし、違うものを見てしまう。愛はあったと思うけど、それは不自由なものだったし、強く私を制限し、許さず、助けもしなかった。
それが良いとか悪いとかの話は、もう終わってしまった。
すべてが、もう過去になった。
だから、私は丸テーブルを部屋に置くことを選んだのだと思う。
失われた、不自由な愛の形。
もう一度帰ってきた。
でもそれはもう私の人生を苦しめることはないし、本当に大事だった「机の上」の方に今度こそ意味が生まれる。
はず。
そう願ってる。
人生は取り戻せる。
形は違うものになるけれど。