「タグコレ 現代アートはわからんね展」 知らなくてもわからなくても表現は走る、走らせる人と走る人がいる限り
ところで、私の目下の課題はパニック発作対応である。それほど重くはないが、重くなくてもキツイんじゃい…というのがこの厄介なところだ。
しかし、アートバーゼルに行くなら、スイスバーゼルに行くなら、なんとかしなくてはいけない。
ということで、電車を乗り継いで1時間、角川武蔵野ミュージアムに行ってきた。
これは演習である。繰り返す、これは演習である。
お目当ては、日本の現代アートコレクターを代表する田口コレクションを見ること。
アートバーゼルは現代アートのフェス(発音を尻上がりにして軽薄さを出してみよう!)だから、現代アートにアタックしなくてはいけない。
ついでに、1時間電車チャレンジ。
そして、アートバーゼルを歩き回ることを想定した服装、靴、持ち物が通用するかの訓練でもある。
まず、ミュージアムの最寄り駅である東所沢駅までだいたい1時間電車。
駅から10分の徒歩。もしかしたらバスもあるかもだけど、館からの公式の案内にはない。
十分なチャレンジである。
近すぎず、遠すぎず、安全な訓練になる。
世界のアートバーゼルに行くのだから、やっぱり一張羅でいきたい気持ちがあるので、手持ちの最強布陣を並べてみた。
ただし、バッグは機能性を優先した。
ヘアメイクも、アイテムを減らしつつ、ちょっと攻めた感じにしたい。
そしてある程度重さがあっても持ちこたえられるか確かめるために、使わないだろうけれどというものも持っていった。
電車は、意外にもスムーズに乗れた。
途中でちょっと具合が悪くなりそうな感じもあったけれど、投薬なしで最寄り駅までついたのだ。
スマホではなく、文庫本で村上春樹の「ランゲルハンス島の午後」を読みながら行った。短編のエッセイで、安西水丸のイラストが共演するように文章にそえられていて、文庫本だけどカラー印刷なので値段が高い。
ただ本自体が薄くて読みやす…くはないが、短い文章で、乗り換えに気を取られながら15分とか20分を落ち着いて過ごすのにはぴったりだった。
そして絵を見る、というか、絵を読むというのも、これから美術館に行くという道中にぴったりな気がした。
いつもならパッと見るだけのイラストのページを、じっくりと見た。
朝ごはんはプロテインを1杯飲んだだけだったので、美術館についた時点で相当お腹が減っていることになりそうだ。
しかし時間指定型のチケットだし、あまり遅くなるのも後ろの予定に響くので、美術館周辺の公園で、コンビニおにぎりでも食べようと思った。天気もよいし。
私はドリス・ヴァン・ノッテンの10万円のスカートで、このベンチに座ってニューデイズで買った鶏めしおこわのおにぎりを食べた。1個だけ。よく噛んで食べるのが大事です。慌てて食べるとてきめんに胃腸に負担が来て、それが自律神経の乱れを呼び、パニック発作を呼んでしまう事があるので。
(だから家では適当に食べても、危険な状況の時はほんのちょっとだけを丁寧に食べる)
ドリス・ヴァン・ノッテンのスカートを汚さないための装備(下に敷くもの)なども完備である。防水性軽量布はとても便利!!
電車内の寒さ避けと、スカートの汚れ防止を兼ねて膝掛けにもする。基本サバイバル精神が我がよりどころ。雨が降る時はバッグカバー、最悪カッパ。エコバッグ足りない時にも風呂敷のように使えて、見た目は悪いけどマフラーにもなる。
それにしても、一人ではいかないような郊外に、ぽつりと行ってしまった。
でっかいしまむら、でっかい西松屋、駐車場が広いコンビニという郊外を表すいくつかのお店を通過して、そしてやっと角川武蔵野ミュージアムに着いた。
KADOKAWAのラノベなどのコンテンツもみっちりらしいけど、とにかく到着できるかもあやしかったので、タグコレ展のチケットしか取らなかった。
しかし、薬も飲まずにわりかしスムーズに移動できて、拍子抜けした。
ラノベコンテンツはあまり知らないのだけど、荒俣宏さんが監修したゾーンは見たかったな……。1DAYパスが4000円なのはちょっと高い。
ところが、いざ会場に向かうと、別の敵がいるではないか。
それは、今回の展示の目玉でもある「暗闇」。
ロッカーに重い荷物をしまい、冷え対策に帽子とジャケットは身につけて、スマホと貴重品とティッシュを小さなショルダーに入れ、万端整いましてのご入場……のはずか。
入り口で説明を受け、さらに真っ暗な入り口でもう一度注意と案内を受ける。途中でうっすらと血の気が引いていく気配がして、私は説明を聞きながら内心ぐらぐらし始める。
とにかく目が慣れるまで、暗さが怖くて、そろそろと探りながら歩く。
キャプションも、絵の裏側に付いているとわかるまでしばらくかかった。
ずっと暗闇の中を、おびえながら歩き、探し、見る。
説明書きが絵の裏に書かれているから、絵の裏に回らないといけない。隣の絵の説明を読んでも意味がない。
ちょっと混乱もあるから、説明と絵が頭の中で一致しなくて、もう一度絵のほうに回り込む。
これは最後まで見れるだろうか……と一瞬不安になった。
が、とにかく行ってみよう。ダメなら離脱したらいいし。
ほとんど鑑賞者がいないタイミングで入れたらしく、マスクを外したら少しパニック症状が引いていき、ちょっと助かった。あとは、ゆっくり、ぶつからないように気をつけて見てまわればいいという気持ちになった。
暗闇の展示は、私の厄介な感覚のバグさえ発動しなければとてもたのしかった。
入り口アプローチの、ずーっと長い横書きのメッセージは歩きながら読むという動きに沿っていて、動画の字幕なら自分は止まっていて字幕がスルスルーッと動いていくところを、自分が動くことで字幕の動きのような表現になる。
なんにも凝った仕掛けではないが、ダイナミックな感覚になった。
暗さに圧迫されながら、浮かび上がるキャプションを一生懸命読んでいたら、スタッフの人たちが何かの連絡事項があったらしく、聞き取れないくらいの小さな声で会話をしていた。
音らしいものは、奥の方に映像作品のインスタレーションから漏れ出てくる妙にガサついた演説する男の声みたいなものだけ。
読む、聞く、話す、見る、見る、見る……聞こえる…
暗闇の中に、いろんなものが存在していた。
会田誠作品は二度目かも。
サラリーマンが積み上がって山になっている大きな絵です。
よく見ると、すべてが男。
初めて見た時は違和感はなかったけど、同じ状況で女も一緒に死屍累々の山となってるのになぁ……という気持ちにはなった。
ここに積まれている男たちと同じくらい、ここには描かれない女たちが、あるいはこの男たちの家族や身内が、同じように死屍累々の山となってるよね、と思う。
彼にはそれが見えなかったのか。
見えなかったのかも。我々の多くも、見えていなかったのだから。
あのキラキラした鹿も見れた。
最初は「デパートのウィンドウディスプレイみたい」って思ってたけど、実物を見たら、そんなコマーシャル的、商業的な作品には収まらないグロテスクさがあった。
鹿の表面にびっしり寄生している無数の大小のガラス玉、ガラス球、その反射とレンズの歪んだ拡大、透明感を纏っているけれど本体である鹿はよく見えない。
きれいなようでいて、とても気持ちが悪い。
これは実物を見るまで「きっときれいでかわいい」という印象だったので、実物と出会えてとてもよかったなと思う。
そんな感じで、たくさんの作品が、ある意味無秩序に、でも個人の意思をはっきりと感じる視座の気配を漂わせつつ、コレクションが一朝一夕で買い集められたものではないことを、キャプションがとつとつと語り続ける。
「わからん」「よくわからん」と言いながら、「わからんけど、中でも勢いがあると自分が感じるものを選んで買った」「これを見ているとエネルギーが湧いてくるような気持ちがしたので、僕は社長だから社員のみんながそんな気持ちを感じられたらいいなと思って買った」と、頭で理解はしていないのに、気持ちや感覚ではわかっている。
子どもの時は、学校の成績がいいとか、パズルを早く正解するとかのほうが賢くてえらいと思っていたのだけど、勉強は最低なんだけどなんでもするっと話をまとめてくるネゴシエーションがすごい人とか、確実にビジネスの勘所を瞬間的につかむ人だとか、そっちの方が重要な感じの事が圧倒的に増えていき、勉強ができることは結構どうでもいいんだなというのがバレていってしまった。
と同時に、ちゃんと勉強したことしか役に立たないというアンビバレンツはある。
このコレクションだって、わからんわからんと言いながら、有識者の意見を取り入れつつ、日本を代表する現代アートコレクションになっている。
しかも、私設美術館などにせず、各地の美術館に貸し出すことがメイン業務になっていて、学校や美術館以外の施設に貸し出す事もあるという。
美術が、アートがすべきことってそれが正解じゃん、と思うのだけど、そう簡単なことではないというのもまあまあわかる。輸送費は?保管は?知らない施設に貸し出すリスクは?
考えたらキリがない。
もちろんプロがやっているのだから、うまく回っているのだろうと思うけれど、簡単なことじゃないなあというのは想像がつくようになった。
現代アートと言われても、という気持ちがないわけではない。
今までは特に学校での美術教育は「好きに感じて自由に感想を書きなさい」というのが多かった気がする。
私は自由に書くのは非常に得意になので、感想をびっしり書いては先生がそれをクラスのみんなの前で読み上げるという事がよくあったが、自由に描いたものをまた他人が自由に適当なことを言って褒めたりけなしたりするって、どうなんだろうねという気持ちになる時もある。
もっと美術史の文脈を知っているほうが面白くなる、というのもわかってきて、ほんのりそこらへんも押さえ始めた。
お陰で、子どもの頃から感じていた謎がいくつか解けた。なぜうちにアフリカの仮面があったのか。誰も趣味ではなさそうだったのにあんな気味の悪いものがあった背景は、1920年代フランスを中心とする芸術運動の中でアフリカ彫刻が大ヒットしてピカソなど有名アーティストが軒並み影響を受けたという事らしい。すごい迂遠。
まあ、それはわかったんだけど。その先に、なぜデュシャンの泉があれほどインパクトを与え、絵でも何でもないガラクタまでがアートと言われるようになったのか。
世界にはいろんな人間がいるし、いろんな言いたいことと、表現手法がある。
正解はない。
でも……よいと言われる表現と、表現のための製作物は確かにある。
ゴミも駄作もある。でも駄作が急に価値のあるものに転じることもある。
わけがわからない。暗闇に押し込められるような気がする。
そんな気分になって、モタモタと順路を進み、最後の部屋への案内マークにたどり着いた。
そこには何もなく、キャプションもなく、暗幕がピタッと閉じているだけで、一瞬スタッフルームへの入り口なのかと思って思わず左右を見回したけれど、順路のマークがそっちを差しているので、緊急脱出経路のEXITマークを横目に、重い暗幕を押し開けた。
そうしたら、暗闇がすべて青に変わった。
最後に唐突に現れた「世界の終わりってわけじゃない」。
ほんとに、一種世界が終わったような感じと、よく見たらそうじゃないってことが一度に襲いかかってきた。
わーってなった。
演劇的で、インテリア規模を超えて建築と言えるくらいの、世界の終わりってわけじゃない。
あれこれ言葉を尽くして、暗い中を歩き回らせて、うろうろと人を考えさせておいて、最後に世界の終わりってわけじゃない。
ズルい。そうだよ、世界は終わりってわけじゃない。まだね。
外は、燦燦と陽が注ぐ新緑を渡る風が心地よい、これ以上ない季節だった。
靴は、もう歩くための靴。日本メーカーのアサヒシューズ、ウォーキングする中高年の足を守るナイスな健康スニーカー。
本当はもう少し鼻先の長い、捨て寸のある細長い靴がいいのだけど、ギリ許せるラウンドトゥ。そして履き慣らせば長距離歩行の味方。
靴下も機能優先で着圧ソックスだけど、色は考えたいところです。
アートバーゼルに行くための演習としては、どうでしょうか。
上々の出来だったのか、どうだろう。
帰りは、電車を待っている時に動悸が来たので、結局薬を一錠飲んだ。
薬なしで往復できたら快挙だったけれど、途中下車などがなかったので十分です。
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つよく生きていきたい。