100年前の関東大震災で被災した吉原遊女はどうなったのか?
私、渡辺豪が経営する遊廓専門書店カストリ書房(台東区千束3-21-14)では移転に際してクラウドファンディングを開催中です。以下ご覧の上、ご共感頂けましたら、是非ご支援下さいますようお願い申し上げます。
本日は令和5年9月1日、ちょうど100年前の今日大正12年、関東大震災が起きた。推定マグニチュード7.9の地震が関東地方を中心に襲った。死者行方不明者合わせて10万5千人、被害額GNP比37%。平成23年の東日本大震災が同じく1万8千人、3%であったことから、関東大震災の経済的社会的影響は計り知れない。
震災によって壊滅した吉原
17世紀初期に創設され、 浅草の北方エリアに移転後は当地で営業を続けていた新吉原遊廓もまた甚大な被害を蒙った。当時の報道の主役である新聞各紙は、娼妓(以下、遊女)の死者2千、3千と過剰に伝えた。後述するように、遊廓関係者が震災直後から誤報である旨を指摘しているが、新吉原の焼失が当時の日本人にとって小さくない心理的インパクトを与えた故の虚報とも理解できる。
上図『帝都大震災画報』は、震後1ヶ月を経ずに描かれた。浅草、上野広小路、日本橋、三越と並んで新吉原が描かれた事実は興味深い。絵に目を移すと以下とある。「今回の震災により廓内三百有余の高楼ほとんど転倒し」「火災と共に旋風起り廓内一同猛火に包まれ」「藝娼妓等の悲鳴を上げ狂乱奔走」と混乱ぶりを伝え、「今回の震災に於ける屈指の悲惨たる場所なりき」と解説を結んでいる。
地元の献身、没した遊女
新吉原の南方にあった花園池(弁天池とも)は廓内唯一の避難地と信じられていたことから、遊女を始めとする近在の住民が飛び込み、多くの死傷者が出ている。後年、新吉原業者組合が発行した『新吉原遊廓略史』(昭和11年)には、花園池で没した遊女数を88名、震災全体では147名と記録している。
震災発生前年の遊女数2,480名(『警視庁統計書』)から推測すると、死者は全体の約5%。未曾有の大災害でありながら95%の遊女は助かった。背景には検梅病院の吉原病院(現台東病院)職員が遊女らを避難誘導した上、6名が殉職するなど関係者の挺身・献身があった。
冒頭、経済的社会的影響は計り知れないと述べたが、心理的影響も計り知れない。当時の遊女たちは、震災とどのように向き合っていたのだろうか。遊廓について言及したものについては、「文化発祥の地」「芸能人でもある遊女」と享楽的な言説や、遊客である男性視線のものが多くを占めるが、遊女の心性に触れたものは極めて少ない。
千葉から届いた吉原遊女の手紙
2年前の2021年、千葉県大網白里市に住む田邊博雄さん(昭和24年生まれ)から手紙が届いた。手紙には概略以下と綴られていた。関東大震災後に吉原遊女の一部が大網白里町永田(現 大網白里市)に避難してきた。地元では舞台を張り、獅子舞(「永田の獅子舞」は指定無形文化財)や村芝居を演じて遊女を慰労した。その返礼に吉原から贈られた舞台幕が地元に残されている。これについて詳細を知りたい。
私自身まったくの初耳で、改めて目を通した関連書『台東区史』『新吉原遊廓沿革史』などにも記載がない。返信し倦ねていたが、震災100年を前に、ともかくも田邊さんにお話を伺うことにした。
舞台幕は3種類、それぞれ幅10m30cm、高さ3m20cmと巨大なもので、舞台の間口6間に合わせてつくられている。地元公民館の二階でお話を伺ったが、25畳の広間に拡げきれない大きさ。
それぞれ、妓楼20軒(すべて江戸一)、幇間25名、地元浅草消防署四番組の火消し25名が連名して贈っている。巨大な舞台幕からは、娼家側の感謝の念が伝わるようである。
これらは大網白里市のデジタルアーカイブでも閲覧できる。(検索キーワードに「永田旭連の獅子舞関連資料」と入力、「大正末~昭和初期」とある幕が本稿で言及したもの)
『永田郷土誌』(平成8年)には、避難してきた遊女の人数は記載されていない。仮に妓楼1軒あたり3名の遊女が避難してきたとすれば、舞台幕には20軒の娼家が染め抜かれていることから推定して60人近くに及ぶ。寝具を始めとする日用品など、遊女を受け容れる経済的負担も相当だったことだろう。経緯については、わずかに記載がある。地元の光昌寺32世住職が浅草に知り合いがおり、この知り合いから依頼されて遊女を受け容れたという。舞台を張った祭りは同年旧暦9月19日、20日(新暦10月28日、29日)のこと。本誌に収録された、平成7年に地元関係者らで催された座談会「永田旭連の今と昔」では、吉原遊女についても言及されているが、内容は幕の大きさについて。伝承らしきものについての言及はない。平成初期の時点で、すでに記憶は途切れていたようだ。
明治44年生まれ、12歳だった父が見た吉原遊女
田邊さんによると、明治44年生まれの父を持つ80歳前後のご近所さんが「お父さんから、小さい頃に女の人がたくさん寺に来ていた想い出を聞いた」と、間接的に当時のことがわずかに伝承されているのみである。
前述の通り、舞台幕には火消しも連名されている。一連の火事や復興対応では火消し(鳶)が中心的な役割を担ったことは推測できるが、返礼品の幕に記名された経緯などは分からない。同じく幇間についても経緯は未詳。娼家からの幕には江戸一とあることから、江戸一丁目(現在の吉原公園がある通り)の遊女が避難してきたことは、かろうじて推察できる。
震災から1世紀を経て、公的な郷土史にもオーラルヒストリーの中にも、避難してきた吉原遊女のことや、舞台幕についての歴史は失われてしまっている。
遊女の歴史を残そうとする人々がいる
現存する舞台幕は「永田の獅子舞」を伝承する永田旭連が、保管・保存している。今回いろいろとお話を伺ったが、拡げた虫干しの際に破けてしまうこと、保管のための専用の高価な薬剤を用いることができず市販の防虫剤を用いていること、善処を役所に掛け合ったが予算が下りなかったといった影ながらのご苦労を伺った。
幕は確かにところどころ破けており、保存の限界を超えている。しかし、この幕に直に触れることができる価値は計り知れない。染めは今も鮮やかで、つい先日染め上げたようにも映る。100年前、確かにこの場に吉原遊女がいたという実感が沸き起こってくる。思弁上の遊女ではなく、手触りをもった遊女。史料は実証的な学問のためだけにあるのではない。
以前の記事でも触れたが、遊廓にまつわる歴史を人知れず残そうと努力を払う地元がある。とかく性売買にまつわる過去は忌避される傾向があるが、過去を受け継ぐことは、地域の繋がりを維持する媒介であり、地元愛を醸成する一部であると改めて気づかされる。
歴史を正確に知ることが歴史継承に直結するか?
経緯が未詳のまま、1世紀に渡って善意で続けられた保存活動に畏敬の念を禁じ得ない。歴史は詳らかにされることで愛着が湧く、これは否定しない。だからといって、歴史が詳らかにされない限り、私たちはその歴史を大切にできない、ということにはならない。一方で、ネット上には差別・偏見を助長し、 過去に生きた(現在に生きる)人々や社会を冷笑する露悪的なコンテンツが溢れているが、それらの少なくないものが知的探求という美名のもとになされていることを意識したい。
震災直後から、廃娼論者はいわゆる吉原大門が原因で遊女の避難が妨げられ、1千人以上の犠牲を生んだといった言説(『朝日新聞』大正12年10月2日付)を採っていたが、当時は大門の扉はなく、閉じ込めが構造的に不可能であったことは、浅草に縁の深い作家・久保田万次郎を始め、吉原業者らが指摘している。
一方で現代においても、遊女が没した弁天池を指して心霊スポット扱いし、事実と異なる過剰な死者数で歓心を買おうとする動画をYouTubeで見出すことができる。1世紀を経てもなお、いまだ「娼妓の過剰な死」を克服できず、悲惨話、心霊話として消費している。
<吉原を心霊スポットと絡ませて紹介するお笑いタレント千原せいじ氏のYouTube動画>
1世紀以上、克服できずにいることは何か
克服できていないものは史実の正確性だろうか。正確を期せば事足りるのか? 遊廓史愛好者のブログには、遊女の死者数を見誤った廃娼論者の失態を挙げ連ねて冷笑する記述も見られる。カストリ書房移転に際したクラファンでは「専門的な知識はときに細を穿っただけの衒学に陥る」との主張を載せた。近年指摘される冷笑主義の台頭を意識してのことである。科学性を否定するつもりは毛頭ない。が、ただ漠然と娼家数と娼妓数を並べ立てるような衒学に陥ることに棹さしたくない。専門書店を名乗って7年を経て、こう考えている。
YouTuberが再生数を稼ぐために悲惨話、心霊話の体で刺激を盛り、どこか愉しむ調子で伝えていることと同様に、廃娼論者の問題意識を無視して誤りを冷笑することもまた、刺激への依存に他ならない。(ただし廃娼論者が事実確認を疎かにした事実には、当時の廃娼という思想が「遊女の残酷な死」という刺激を必要とした側面が伴っていた点は指摘したい)
ときに吉原は「江戸文化発祥の地」と持ち上げられ、反対に実態をかけ離れた「悲惨な遊女」像と重ねられ、さらにはメタ的な冷笑主義を生んでいるが、いずれも〝刺激〟の多寡で対象を扱い、遊女とされた女性への軽視の点では根は変わらない。冒頭挙げた新聞の誤報・虚報もまた「遊女の残酷な死」が新聞読者の歓心を買う打算に他ならない。克服できずにいるのは正確性ではなく、遊廓にまつわる人々、その社会への共感ではないだろか。
死んだ遊女が少なかったことは喜ばしいか?
悲惨話として消費する姿勢には到底同意できないが、かといって、実際の人数の少なさをどう考えれば良いのか、私自身、今も迷っている。吉原の業者組合が記した戦前の沿革史『新吉原遊廓沿革史』では、少ない死者数をある種の美談として取り上げている。曰く吉原病院に入院していた遊女は「一人の死傷者をも出さず、一人の逃亡者もなく、二百三十五名がことごとく帰来した」と。確かに死者は少ないほど良い。未曾有の大災害を思えば、不幸中の幸いである。が、そこで思考を止めていいのか──
過日、静岡市の遊廓・二丁町で慶応年間から続く寿司店の大将を取材した。お子さんに代を譲るも、85歳の今なおカウンターに立たれている。昭和20年6月19日・静岡空襲では、同遊廓も被災しているが、大将はこの日の出来事を鮮明に記憶している。
当時少年だった大将の記憶によれは、日頃から気が触れていた遊女が火災から逃げる流れとは反対の方、つまり火の手の方へ逃げていき、その後、見掛けなくなったという。この遊女にとっての解放や逃亡は、「廓」という地理上からの移動ではなく、死以外に無かったと私は理解した。
人の記憶は改変されやすく、記憶をそのまま史資料と扱うには慎重を期さねばならないことは分かる。「死」云々を持ち出した私の推察も感情に流されていることも分かる。ただし、この記憶を受け容れて当事者が生きてきた事実は軽視ししたくない。
翻って、〝実際は少なかった遊女の死者〟や〝ことごとく帰来した235名〟、〝一人の逃亡者もなく〟を喜べるだろうか。火の手から逃れて、稼業の再開を望んだのは、それだけ両親が、地域社会が、社会構造が彼女たちに背負わせたものが大きかったためではないか。「私が逃げたら親兄弟に迷惑が掛かる」と。生き延びた先には、以前の生活が待っている。「死んだ方がまし」と軽率に口にすることは厳に慎まなければならないが、大将から聞いた、猛火に突き進んで行った〝気の触れた遊女〟は、日頃狂気を演じなければならないほどの苦境にあり、災害と混乱に乗じて自らを解放したとしたら、他のどの遊女よりも正気の持ち主ではないか──
社会構造の考慮や遊女への寄り添いが抜け落ちたまま犠牲者の多寡を論じ、数値の正確さに拘泥することに衒学以上の意味があるのか、私には分からない。
火事から逃げることができた、と同時に、未曾有の天災をもってしても娼妓稼業から逃げ出せないほどに、公娼制度は日本社会に深く根付き、堅固なものだった。私は震災時の遊女を取り巻く状況について、こう理解している。
憐憫の情を持った楼主
大網白里町永田に避難してきた遊女たちはどのような日々を送ったのだろうか。一時でも憂さを忘れて芝居や獅子舞に興じた遊女がいたと願いたい。一方で、営業できなければ、親元への送金も滞る。休業中の利子を考えて不安に苛まれた遊女もいたことだろう。
遠路わざわざ遊女を避難させた楼主に哀れみの情がなかったとも思えない。一刻も早い営業再開が眼中にあるならば、近所に遊女を留めておくことが必然である。どこか憐憫にも似た気持ちもあったのだろうか。当時、震災を契機に廃娼運動が一段と勢いを増したことはよく知られる。遊女の慰撫策が世間へ向けたある種のポーズだったとしたら、娼家組合が編纂した『新吉原遊廓沿革史』で強調されるはずだが、どこにも記載がない。
震災が起きた大正時代の吉原を綴った作品に『大正・吉原私記』がある。大文字楼の長男として生まれ、廃娼論者・山室軍平の影響を受けた青年時代を送った著者・波木井皓三は、娼家を経営する両親と廃娼を望む自身との軋轢を綴っている。後年は母親と絶縁状態にあった。廃娼という社会のうねりに飲み込まれて、一つの家族関係が崩壊した歴史の1ページは記憶されていい。楼主に遊女への憐憫があったとすれば、それは廃娼論の高まりで社会悪と見做された楼主(とその家族)が抱えた葛藤と裏表一体の関係に違いなく、遊女へ心を寄せると同時に、時代の変革期に飲み込まれた楼主の家族たちにも同じく心を寄せたい。
縷々述べたことは、どれもこれも憶測の域を出ない。しかし大網白里市の地元では、「私たちの父母、祖父母が身寄りのない遊女を受け入れ、慰労した」という誇りと優しさの形象で歴史を育み、その証である舞台幕を大切に継承してきたことは紛れもない事実である。
吉原の地元有志らがつくる吉原弁財天奉賛会は昨年来、同寺社内にある池の補修費を募り、100年の節目を迎える今日9月1日、「関東大震災100年慰霊式」を執り行った。
※ヘッダー画像:田邊博雄さん(撮影・渡辺豪、無断転載禁止)
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