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静寂な遊びがパーティーを越える時。

3連休の中日、日曜の夜21:35。

この世界から音という概念を一切取り除いたかのように静まり返るお部屋の中で、きのことオクラのお味噌汁と、オートミールで作った夜ごはんを食べながら、本を読んでいた。


平野紗希子さんの「ショートケーキは背中から」

数年前、わたしが個人で食の道を進むキッカケにもなった彼女の綴るフードエッセイの世界に入り込み、彼女がみてる景色と同じものを、同じ匂いを、同じ味を、この瞬間、重ねて生きれているような感覚がした。

わたしはそんな風に静寂の時間を過ごすのが、時々とても好き。

でもふと、それが20代前半のわたしには想像もできないような種類の遊び方であることを思い出した。

元々、お家にいることに1mmの価値も感じないくらい外で遊び呆ける子だった。

寝る時以外家にいない、っていう、あれは比喩じゃなくてただの事実。

朝から夜中まで、本当にお風呂とベッドしか必要としないくらい、お家で過ごすことに対して一切の興味を持っていなかった。というか、シンプルにそれ以外の生き方を知らなかった。

部屋でじっとしてて、何が生まれるの?

と本気で思っていたし、その静寂の豊かさに気づくこともなかった。

今思えば、若いというのもあったと思うんだけど、ただ自分の究極的なところで欠けている「何か」を、外の刺激で満たそうとしていたのだと思う。

外の世界で生きることで、自分が完全になる感覚というか。

一日4〜5件飲み会をハシゴするのなんて呼吸するくらい当たり前だったし、終電に乗った瞬間にすやすやと眠って気づいたら知らない駅、仕方なく(いや、仕方ないとさえ感じてない)近くのホテルで泊まって早朝に帰ることもあれば、お休みの日は昼からカラオケやイタリアンを経てお祭りで踊って東京タワーに登るような、東京の夜景に心底感動してそこからまた居酒屋で最後シメてその週末を達成感と共に終えるような、なんとも派手で身勝手で自由な過ごし方をしていた。笑

だからそんなわたしが今こうして、ひとりで自炊した夜ごはんを食べながら大好きな人の本を読んで、頭のてっぺんからつま先まで何にも代えられないくらいの充足感に満たされているなんて、180度性格が変わったといっても過言じゃないと思う。

「え?!飲まなくなったの?」

と大袈裟なくらい驚かれることも今ではなくなったけど、常に飲むのはお酒ではなくて水かルイボスティーへ、その方が自分の細胞がよろこび血液が潤うような感覚を覚えた。

本当に自分のことを愛して、この世界のことも愛して、今自分ができる限りの全てを受け入れて、充足も欠乏も全て自分という存在だけで入れ替えれるいう覚悟を持った時、そんな生き方を知った時、できるようになった時、わたしたちはどこでどんな風に生きるかその場所なんてきっと関係がないのでは、と感じた。

何かしてるから幸せ、と思っていた20代、何もしてないから幸せ、と思えるようになった30代、そのどちらの豊かさも抱きしめて生きていけたら、本当に色んな景色に惚れ惚れしながら過ごせるように思う。

27歳の時、コロナで日本でも緊急事態宣言が発動され、今考えると懐かしいけれど会社に行くことも許されず自宅待機を余儀なくされたことがあった。

まだ会社の4畳半くらいしかないような寮に住んでいたあの頃、きっとそんな風にライフスタイルが突然変わって心を病む人が多い中、わたしはまるで遊園地ではない水族館の過ごし方を初めて知ったような、正直なところ、ひとりでとても感動していた。

家にいた方が進むことって、あるんだ!

それまで、体験至上主義だったわたしはただ家にいても得れるものや学ぶことは一切ないとなぜか固く揺るぎなく信じていたけれど、家にいるからこそ進むこと、例えばちょっと立ち止まる時間や自分の内側を見つめる感覚など、人生ってこんな進み方もできるんだ!と、まるで今世初めて経験するような「おうちじかん」に対して、喜びのカルチャーショックになったのを覚えている。笑

あれから4年経って、あの時わたしはあんなに一日20時間ほど外で過ごして、一体自分の何を進めていたんだろうと疑問に思う。笑

会社を辞めて、自分が本当に追求したいこと、集中したいこと、外で過ごす他からの刺激よりも自分の人生そのものの方に焦点を当て始めた時、外で遊んだり人と会う時間はそれまでの1/30ほどに減って、ライフスタイルも激変して、自分から積極的に会うことなんて殆どなくなったけど、それでも支障がないどころか、むしろ自分が欲しい種類の豊かさが研ぎ澄まされて残ると知れたことは、人生の大きな安心感に繋がったと思う。

定期的に飲み会の予定なんて約束しなくても本当に大切な人間関係は残り続けるし、たとえ物理的に会わない時間が長くなっても、本当に繋がっている人はそもそも心で感じ合える。愛しいパートナーに出会ったのは偶然だったし、一緒に共鳴し合える仲間も気づいたら交わっていた。

外食コンビニ至上主義だと思っていたけれど、糖分や油を好きにコントロールできる自炊のヘルシーさを知ると、もう前のような生活には戻れないと思っているなんて、数年で人のライフスタイルはここまで変化することに自分がいちばん驚く。

だから20代前半のわたしに、そんな風に外で遊び続けて、毎日のように何かを得る、埋める、満たす、なんて足し算×100のような過ごし方をしなくても、いらないものは手放す、自分の内側を見つめる、ただ息をする、感じる、のような引き算的な過ごし方でも十分満たされることを、むしろそっちの方が、本当の意味で魂が喜んでいるんじゃないかということを、教えてあげたくなった。

でもそんな風に思えるのも、もうこれ以上いいというくらい遊び切った、何かに対してやり切ったと感じる過去があったからだと思うと、なんだかそんな日々や感情をとても愛しく思う。

あと数年後、こうしてひとりで本を楽しむ時間のことを思い出し、それよりももっと豊かな時間があると今のわたしに教えたくなるような未来を生きれてたとしたら、そんな風に積み重ねる人生は、きっとわたしが欲しい種類のものだと思うとなんだか突然嬉しくなった。

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