2024年 年の瀬に思うこと
2024年が終わる。
毎年のことながら「どんな一年だったかな」と想いを巡らせてみる。
今年は 終わりであり始まりの年 だった。
年明けから1ヶ月間の南アフリカ滞在に始まり、
3・4・5月はライブがあって、ミュージシャンとしての軌跡も残せた。
そこからは表に出せるような写真はなかったのだけど、濃くて濃くて濃ーかった下半期。6・7・8月と駆け抜けた。
久しぶりに家族のために生きるかーと決めて動いた年。それが2024年。
3月に母が末期の脳腫瘍と診断されて、余命半年の宣告を受けた。
本人の希望もあって、とくに治療はしないことになった。
それでいいのか、悪いのか。
とにかくその時その時の「最善」を選んできた。
と、同時に妹が9月に出産予定。
「え⁉︎どっちが先?」と毎日言っていた笑
妊婦の妹と2人、20年近く住んだ実家を6月中に引き上げなければいけなくなった。
引越しじゃなくて「たたむ」というのは「基本全捨て」ということ。
思い出の品を懐かしみながら、合言葉のようにそれを言い合って、母の大切にしてたものや自分たちの人生に寄り添っていた品々も、取っておく場所もないし、とにかく捨てた。人生をリセットした。
お互いの家族の協力もあって、ギリセーフ!マジでやりきった!褒め讃えたい!あっぱれ!笑
実家撤収作業に並行して、母の手続きやら何やらも次々と舞い込んできた。
ソーシャルワーカーさんと転院先を探す
転院先への母の送り迎え
さらに次に入所するホスピスを探しながら介護認定をとる
役所との各種手続きのやりとり
いくつかホスピスに見学に行く
ホスピス入所の手続き
ホスピス入所まで1週間自宅で母の介護
入所後は基本毎日通って洗濯物の回収と補充
という次々やってくる、聞いたこともやったこともない課題たち!
を自宅保育しながら仕事しながら…と
今振り返ると「どうやってたん私?」とつくづく思うが。笑
そんなこんなで、週1泊まりがけで実家に行き、母のお見舞いと手続きとコツコツ片付けという中盤戦が何ヶ月か続いた。
問題は、常に「withもうすぐ2歳のモンスター娘」ということである。
何をやるにも倍、いや3倍ほど時間がかかる。
子連れ実家たたみ(必殺技のようなネーミング)は難易度高すぎた。
速攻で保育園探したw
こう見えて(どう見えてるのかはわからないが笑)最近まで免許の更新も1人でできないくらい、お役所手続き関係が何より苦手だった。
そんな私が、今やスーパーの買い出しのついでに車庫証明取れるくらいになった。まじで鍛えられた。
手続きのことならなんでも聞いて欲しい。任せてくれ。
いや、ちょっとまだそれは怖い。
ただ、昨年の私と比べて今年最も成長したことは何かと聞かれたら、間違いなくここがハイライトである!
手続きレベル(なんだそれ)が幼稚園児から高校生になった!(まだ低い)
9月。
妹の子どもが生まれた。(こっちが先で良かったー!)
次の日、妹の病院とテレビ電話を繋いで母に報告すると、その頃にはもうほとんど眠っていて会話なんて全く出来なくなっていた母が、その日は偶然少しだけ起きていた。
スマホを食い入るように見て「かわいいなぁ」と言って、それが最後に聞いた言葉になった。
その2日後の夜、母は天国に旅立った。
正直、母とは仲の良い親子ではなかった。
母はそれを認めたくなさそうだった。
母は人生の全てを子どもに捧ぐ!と決意した分だけ子離れできず、私はそれが苦しくて苦しくて反発に反発を重ねた。
家族はいつも一緒にいないといけない!
親子は運命共同体!
親は子どものことを全部把握していて当然!
そんな母の理想がここ5年くらいはしんどくなりすぎてしまい、自分の人生を守ろうと試行錯誤したけれどやっぱりうまくいかず、結局は強行手段として連絡を取るのも極力避けていた。
母は「こんなに愛しているのになぜ…」と思っていただろうし、「祐日は私を嫌っている」と思っていただろう。
私もやっぱりしんどかったし、最後まで素直に会話はできなかった。
感謝しているとか愛しているとか、好きとか嫌いとか、そういう言葉ではもう表現できなくなってしまっていた親子関係だったけれど、
うまく言葉に出来ないぶん、最期の時に母のために死ぬ気で動いたので、
それで私がどう思っていたのか母に伝わっていたらいいなと思う。
子どもの頃、母は重いうつ病で、毎日私の部屋に「どうしよう。助けて。助けて。」と言いに来た。
最初は一生懸命励ましていたけれど、だんだんとしんどくなって、それを聞きたくなくて布団にこもるようになった。
学校にも行けなくなったし、まともに会話もできなくなったし、全部に蓋をしたら、本当の気持ちが話せないどころか自分でもわからなくなった。
親を悪く言うのはタブーなのだろうか?
親は大事にしなさい。親の言うことは聞きなさい。親に感謝しなさい。
きっと子どもは誰よりもそんなことわかっている。
もしかしたら親が子どもに向ける以上に、親のことを愛しているのかもしれない。
だけど、親も人である。
間違うこともあるし、子どもだって自我が芽生えれば親と社会の矛盾、自分の価値観との違いをたくさん感じるようになる。
親であることは子どもより優れていると言うことではない。
「親という立場」を「子どもへのマウンティング」の盾にしてはいけない。
とても強い文章になってしまうけれど、私はそれをずっと主張したかった。
「親に感謝するのが当然」という常識が私にとっては呪いであり、それが手放しにできない私はいつも「自分は悪い人間」を抱えて生きざるを得なかった。
「親に感謝できない自分」と合わせて、母には「こうあって欲しい祐日像」が強くあって、直接言われるわけではないけれど私はそれを敏感に感じていた。
そして厄介なのが、そんなの気にしなくていいとわかっていながら、それを叶えられない自分に罪悪感を感じる。やっぱり子どもは親を喜ばせたい生き物なのだろうか。
親の理想を実現できない自分に罪悪感を持つって変なことなのか。
自分も同じだ、と言う人、どれくらいいるのかな。
だから、なんだかんだ、音楽活動や発信活動をするのにどこかで母の目を気にしてしまう自分がいた。
母の理想とする「ミュージシャン祐日」と「娘 祐日」に引っ張られるし、引っ張られないようにするし、どうしてもそこに引っ掛かりを感じていた。
でももうそれがなくなった。
何も気にせず、好きなことをやって好きなことを言える。
母の悪口も書ける。
母とちゃんと交わした最後の会話は
「お前がこんな施設に入れるから、お前のせいで私は死ぬんだ。」
「私もう疲れちゃったよ。」だった。
感情が思考よりも先に言葉に出る母と
「言葉」に異常に敏感な娘はいつも相性が悪かったなぁ。
母も大変な人生を一生懸命に生きたんだと思う。
不器用すぎたけど、それでも最後まで子どもの幸せを一番に願っていた人だった。結局最後はそれに救われた。
この文章を読んで不快に思う人がいるかもしれないし、死人に鞭打つことになるのかもしれない。
だけどこれは私の人生のけじめだから、どうしても書かせて欲しい。
親に対する反発は、今私が親になったからこそ書ける。
親について言葉にする時は「ただの反抗期の娘の戯言」になってしまわないように、自分が親になって経験してからと決めていた。
母から「お前も親になったらわかる」と、何かある度に言われていたことへの反発でもあるのかもしれない。
親になって改めて、母との関係はとても近すぎたのだとよくわかるし、自分が子育てをすることもとても怖い。
もし自分の子どもが同じように親に対して苦しい思いをするのなら、しっかり受け止めてあげられる自分でありたいと、それだけは何があっても忘れずにいたい。
だから、この文章は自戒でもある。
母からは良くも悪くも本当にたくさんのことを学んだ。
今の私を作っているほとんどは、間違いなく「母」だ。
2024年、人生をリセットした。
だけど大切なものはちゃんと残った気がする。
家族のために生き過ぎてパンクしてしまった子ども時代。
はっきり言って、お手本のようなアダルトチルドレンだった。
それを周りが気づかせてくれた時から、
家族のことを見ないように見ないように、自分の人生を生きるんだ、とやってきた。
でも今年は「さーて、久しぶりにやりますか!」と、魂の根っこを長い封印から呼び起こしてみた。
今の私には、安心して帰れる家があって、子どもがいて、もうパンクしない自信があったから。
やりきったぞ2024年!
そういえば本厄でした。ちゃんと本厄だったな。
全部清算したぞ!やってこい本吉ーーーーーー!
あと、今年はとにかく風邪をひいた。
しかも人生最大級の。(保育園恐るべし)
とんでもない鼻風邪ととんでもない咳風邪と
40度の熱も2回くらい出した気が…。
アラフォーは健康第一や…
来年は音楽活動10周年なのです。
音楽やりたい。やる!
みんな本当にありがとうね。
たくさんの温かい言葉と想いを寄せていただいて生き抜けた2024年でした。
感謝の想いを返していける私になれるように、来年も努力したいと思います。
2024年12月31日
祐日