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安心する場所がほしい

はじめに

最近ずっと、無印アニポケを見ている。

1997年から2002年に放送されていた初代アニメポケットモンスターで、私が小学生の頃に流れていたものだ。

感受性が強すぎる我々夫婦はドラマやアニメも苦手で、一緒に見られるものといえばポケモンや遊戯王といった平成アニメだ。見てみると1話あたりの展開が激しいものも多くてジェットコースター感が強いのだが、今のアニメより書き込みも少ないしシンプルにストーリーを読めるので刺激が少なく感じる。

ポケモンも昔見ていたといってもほとんど覚えていないので、へぇこんなことがあったのか、と楽しく見ている。今カントー編なのだが、今のところまともにジムリーダーとバトルしているのはクチバとセキチクくらいしかない。大丈夫か(サトシさん早く相性を覚えてください)。


主人公のサトシはゲーム本編では一匹しかもらえない御三家の、ヒトカゲ・ゼニガメ・フシギダネを持っているが、彼らは皆捨てられたポケモンだ。

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(無印編第10話『かくれざとのフシギダネ』)より)

育てても強くならない、かわいくないなどトレーナーの勝手な事情で捨てられてしまったポケモン達を一時的に保護する村(シェルター)。フシギダネも同じように捨てられ、その村の用心棒を務めていた。

いつものようにロケット団がじゃましに来るが、フシギダネはサトシ達と協力してロケット団を追い払う。村を管理する女性は、「ここはあくまでリハビリ施設。元気になった子には元の世界に戻ってのびのび生きてほしい」と告げ、サトシにフシギダネを託す。そんなお話だ。


”一時的に保護はするけど、元気になったら元の世界に――”というこの話が、私には印象深かった。

生命の危機も感じず、何者にも脅かされず、ずっと穏やかに過ごせる場所。そんなところにいてもいいのは、きっと保育園に上がる前のほんのわずかな時間だけ。少しずつ社会との接点を持ち、家族などの庇護から離れ、あとは自分で傷だらけになりながら生きていくことになる。

でも、そんな大人になってしまった私たちにも、シェルターは必要だ。

虐待とかDVとかそういう理由とはまた別に、見かけ上は普通に生活していても、あらゆることから逃げ出して、どんなことからも守ってくれる、そんな場所は必要だと思う。というか、そういう場所があることを知っていれば、また社会に出て傷ついても平気なんだと思う。

前置きが長くなったが、今回はそんな”安心する場所”がほしいというお話。


何をしても許してくれる人がほしいと思った

自分語りになってしまうが、私の人間関係の基本は、相手の期待に応えることにある。

自分の話はあまりせず、相手の話したいことを引き出す。わざわざ時間を割いてもらっているのだから、楽しく、実りある時間を過ごして、いい気分で帰ってもらう。相手の求める反応は、表情は――と、基準が全部相手にある(これをやり続けてしんどくなってしまったので今は矯正を試みているのだが、そう簡単には直らない)。

もし不快な思いをさせてしまったり、うっかり思ったことをそのまま言ってしまうと、私の思考は一気に「失敗した、私でなければよかったのに」となる。

この傾向は恋人など、親密度が高くになるにつれて大きくなる。

相手の機嫌を損ねると(面と向かって私のせいだと言われたわけではない)途端に足元がぐらついてしまう。失敗した失敗した失敗したもうここにはいられない消えるしかない、と思考が飛躍する。

でも実際には、一度のコミュニケーション不良でその関係性が終わるということはそうそうない。そうして次に私が求めたのが、シェルターだった。

何をしても怒られない、許される場所。あたたかくて、肌触りがよくて、怖いものなんてない。誰でもいいから許してほしい。


記憶の中の実家は、常に誰かの機嫌が悪い場所だった。

私自身が怒られるということはほとんどなかったが、知らないところで母は祖父母や父の標的だったと思う。

だんだん私は、自分のせいだ、と思うようになった。

何がとは分からないけど、自分にもっと力があれば、もっと明るくて雰囲気を変えられる存在だったら。

相手の機嫌を伺う根っこにあるのは、きっとここだと思う。


結婚して、家は怖い場所ではなくなった。

優しすぎるくらいに優しい夫がいつでも受け入れてくれるし、ここでは好きなことをしていても怒られない。特に今は会社という嫌な場所からも逃げてぬくぬくしていられる。やっと安全な場所を手に入れた、と思えた。

それなのに学習しない私は、時々間違えてしまう。

物事への感情の抱き方、気持ちの伝え方、夫との接し方。何かが少しでも嚙み合わないと、足場はいとも容易くぐらついてしまう。安心できる場所はここでもなかった、どこにもない、いなくなるしかない。

教会に行こうかとも思った。海外の映画を観ていると、その宗教観が時に羨ましく思うことがある。

いつも見守ってくれる、心の拠り所。実際は少し違うのかもしれないが、私にとって、神様はそんなふうに見える。


もう29になるというのに、私はいまだに”母なる存在”を求めてしまう。実母との関係に迷う私が、真に求めるのは母だなんて、人生は難しい。


私にとっての”安心する場所”

そんな私が唯一見つけたシェルターは、映画を観ること、だ。

好き嫌いが多い私が、”味わいは千差万別、でもそれぞれ良い”とすんなり思えるのが映画とワインだ。口下手だった父との数少ない交流手段でもあった。

人に誇れるほどの本数は観ていないし、苦手なジャンルも多い。だが、映画に関してはその時の気持ちやそれまでに経験したことによって、感じ方が大きく変わるということを経験として知っている。だから、どんな感じ方をしてもいいんだと思える。

それに、物語の世界に浸かれるというのも単純に魅力だ。異国の景色は、私の散らばった思考をあっという間に遠くまで運んでくれる。


刺激に強くてコンテンツを摂取する体力が少なめなので、毎日1本観ます!とはいかないが、最後のオアシスが待っていると思えば救いもある。

綺麗なものを見たいから『キャロル』もいいし、からっとした気分になれる『オーシャンズ11』もいいかも。Netflixで配信されている新作も探してみよう。

ぐらぐらな土台も、こじらせた価値観も、それから社会復帰も。直さなきゃいけないところはたくさんある。でも私なりの速度で、進んでいけたらいいなと思う。ポケセンだって、何度も使っていいんだし。

おしまい。


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箱崎ゆのまる
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