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連載長編小説『美しき復讐の女神』8-2

 コートが重いから、ゼミが終わったらさっさと帰ろうと三浜は思っていた。だが帰り支度を始めた時、間の悪いことに瀧本と乃愛に引き留められた。そのまま二人に流されて、集団を作ってはしゃぐ下品な連中共と同じ学内カフェに腰を落ち着けることになってしまった。最悪としか言いようがなかった。今日は乃愛の奢りらしく、三浜が欲してもいないブラックコーヒーが勝手に運ばれて来た。どうせ味も苦みも感じない、と三浜は砂糖を入れずにそのまま啜った。やはりうまくもまずくもない。それは味がないのと同じだった。静かに波立つ真っ黒な液体は、三浜に物足りなさだけを与えた。
「それで、用があるならさっさと済ませてくれ」
 三浜は喉の渇きを癒すだけの液体を口に含み、乃愛と瀧本の顔を交互に見た。二人が示し合わせたようにお互いの顔を見て、フロアを気にする素振りをしたから、まさか結婚の報告じゃないだろうな、と三浜は思った。この二人なら、学生結婚しても不思議じゃない。結婚すれば、今よりは惚気話を聞かされる回数も減るだろう。その点に関しては、結婚のメリットだろうか。そんな皮肉を考え、三浜は無意識に口元を曲げていた。
「遅いな……」
 瀧本が呟いた。三浜はそれで誰かが来ることを察し、気が滅入った。これまで三浜は瀧本と乃愛以外にまともに会話をした学生などいない。初対面の人物と話をするのはひどく気疲れするし、ここに一人が加われば合計四人だ。四人は立派な集団である。三浜は苛々して、コーヒーの入ったカップを人差し指でトントンと叩いた。
「もう帰っていい?」
 二分ほど経って、三浜は耐え切れずに言った。誰がここに加わるのかも知らされないまま待たされるのは苦痛だった。その上この後に初対面の者と関わらなければならないのだ。それを思うと、もはや三浜は我慢ならないのだった。席を立とうとする三浜を、乃愛が懸命に引き留めた。おまけに瀧本がコーヒーのおかわりを買ってきて、三浜の前に置いた。ちょうどその時、乃愛が立ち上がって大きく手を振った。どうやら約束の人物が現れたらしい。
「やっと来た」
「ごめん。……待った?」囁くほどの小さな声で彼女は言った。三浜のほうをちらっと見ると、まるで三浜を怖がるみたいに控えめな目礼を寄越した。
 見覚えがあるな、と三浜は思った。一目見てブラウンのコートが印象的で、そのコートの裾からはジーンズの青が伸びていて、足元は白のスニーカーだ。化粧はそれほど濃くなく、持って生まれた端正な顔を保ち、乃愛とは違って上品な容姿をしている。凛ほどではないが、学内では上位に食い込む美人ではないだろうか。ただ、ショートボブの髪型のせいか少し顔が幼く見える。改めて全身を見たが、その華奢な女性に見覚えはあるものの、名前は思い出せなかった。
「浩介、知ってるかな?」
 乃愛はショートボブの女性を指して言った。三浜が首を捻ると、乃愛は女性の背中を押した。自己紹介しろ、ということらしい。
「柊です……」
 辛うじて聞き取れるほどの声だった。柊、と聞いて、やはり聞き覚えはあると思った。昨年に受講していた講義でも一緒だったのだろうか。教員が名前を読み上げて出欠を取る科目がいくつかあったから、それで耳にしたのかもしれない。
「もっと大きい声出しなよ。名字だけじゃなくて、名前も言わないと。名前のほうが大事なんだから」
 柊と名乗った女性は、乃愛に押されて一歩前に出たが、肩は力んでしまって、真ん丸の目は三浜の顔を見ようとしない。彼女はやはり、小さな声で言った。
「柊、明奈です」
 ブラックを啜りながら乃愛と瀧本のほうを窺い、どうやら彼女と知り合いでないのは俺だけのようだ、と三浜は悟った。
「三浜浩介」名乗る義理などないが、三浜は場の雰囲気に流されて名乗った。「よろしく」
 せっかく三浜が歩み寄ろうとしたのに、明奈はそれを断ち切るかのように深々と頭を下げた。ショートボブが垂れ下がり、かと思えばすぐに勢いよく元の形に戻った。まるで色気はないが、純情そうな人だ、と三浜は思った。乃愛が大袈裟な拍手を打つと、瀧本と揃って席を立った。三浜は虚を突かれて、二人のことを呆然と眺めていた。
「明奈、浩介と話してみたいんだって」
「はあ?」
「浩介今彼女いないんでしょ? だからいいじゃない。明奈、いい子だから」
「またそれか……」
 三浜は溜息を吐いた。席が空いても立ち尽くしたままの明奈に三浜は腰を下ろすよう促した。明奈はぎこちなく腰を据えたが、一向にこちらを見ようとせず、俯いた額から前髪が宙ぶらりんになっていた。彼女のほうから話したいと申し出たのに、ただの一言すら発しない。付き合ってられない、帰るか、と三浜は思ったが、明奈の背後でこちらを見守る瀧本と乃愛が何か話しかけろと顎をしゃくっていた。べつに明奈と親しくなろうなどとは考えていないが、あまりに突き放した言い方だと、深く傷つけてしまうような気がして、三浜はひどく気を遣って話し掛けた。
「飲み物、どうする?」
「あ、お水で結構です」
「ちょっと待ってて」
 水を取りに立ち上がると、思わず溜息が出た。余程の人見知りなのか、男慣れしていないのか。いずれにせよ、声は小さいし目も合わせない。こんな茶番にいつまでも付き合っていられない。三浜は明奈のほうを見たが、三浜が席を立つ時と同じようにじっと座っていた。緊張しているせいで、肩に力が入っているのだろうけど、その緊張が解ければ多少口を開くのだろうか。
「はい、水ね」
「あ、ありがとうございます」
 やはり視線は伏せたままだ。相変わらず声も小さい。だが体育会系なのか、小さい声の中にどこか張りが感じられた。
「タメ口でいいよ。同級生でしょ」
「あ、うん……」
 案外言葉遣いを改めるだけで、距離はぐっと近くなるものだが、明奈に関してはそうはいかないようだ。小さい顔はまだまだ強張っている。
「サークルとか部活は、何か入ってるの?」
「……剣道部」
「ああ、じゃあ乃愛と同じだ。ふうん、女剣士ね」
 そう言って明奈の反応を窺ったが、明奈は水にも手をつけず、両肩を内側に巻き込むようにして、俯いていた。これはだめだ、と三浜は思った。なぜか三浜のほうが喉が渇いて来た。コーヒーを啜ると、乃愛のほうを見て首を横に振った。三浜はそれでリングにタオルを投げ入れたつもりだったが、乃愛が勝手にタオルを回収し、まだまだ頑張れ、と顎で促してきた。どうして俺が、と三浜は内心落胆した。普通は明奈のほうが三浜の心を開かせようとするのではないのか。いったい自分は今何のために頑張っているのかまるでわからない。
「柊さんは剣道強いの?」
 何とか質問を繰り出した三浜だったが、次の質問を考えようと思考を動かすと、どうやって切り上げるかばかり考えてしまう。
「あたしは全然、弱いです」
 うまく会話ができなくて怖気づいたのか、明奈は敬語に戻った。三浜は双六で振り出しに戻った時のようなやるせなさを感じた。
「じゃあ、頑張らないとね……」
 三浜の言葉を最後に一分ほどの沈黙が流れた。すでに四限は始まっていた。これ以上ここにいて有意義な時間など過ごせるだろうか。このままだらだら話を続けても時間の無駄だ、三浜は決心して立ち上がった。
「この後用事があって、悪いけど今日はこの辺で」
「あ、はい……」
「じゃあ……」
 三浜が席を離れると、すかさず瀧本が駆け寄って来た。呼び止められて立ち止ると、乃愛が明奈の傍に行くのが見えた。
「何で帰るんだよ」
「まともな会話もできない、ただただ気まずい空気だけが流れる、そんなのに耐えられるか? 俺なりに話しかけてみたけど、大した返事がない。おまえら二人、こんなことのために俺を引き留めたのか?」
「明奈も緊張してたんだよ」
「緊張し過ぎだ。せめてもう少し何とかなるだろう。人見知りなのは察するが、あそこまでとなるとやり用すらないじゃないか」
「でも美人だと思わないか?」
 三浜は目を細めた。「何が言いたい?」
「浩介の彼女にどうかと思ったんだよ」
「余計なお世話だ。まあ美人かもしれないけど、色気がない。少なくとも恋愛対象にはならないね」
「残念だなあ」
「残念?」
「明奈は浩介のこと、ちょっと気になってるみたいだから」
 三浜は驚いて、反論もせずに明奈のほうを振り返った。テーブルでは乃愛と向き合って何やら話している明奈の姿があった。三浜の位置からは横顔しか見えないが、その横顔にはさっきはなかった微笑が広がっていた。あんなふうに笑える人だったのか――何とも言い難い不思議な気持ちを三浜は感じた。
「好きな人とか、気になる人と話すって初めの内は緊張するだろ。特に浩介と明奈は初対面なんだし、今日の緊張は大目に見てやってくれよ」
「べつに今日の柊さんのことを良くも悪くも思わないな。そもそも恋愛対象じゃないんだから」
「恋愛ってのは時間を掛けて成就させるもんだ。その内浩介の恋愛対象に明奈が入ってくるかもしれないだろ。それに、時間が経てば明奈だって緊張しないで浩介と話せるようになる」
 三浜はふん、と鼻を鳴らした。
「それは俺に言われてもな。柊さん次第なんじゃないか。もういい加減帰らせてくれ」
「冷たいなあ」
 大学構内を早歩きで横切りながら、自分と明奈が親しげに会話しているところを想像してみた。確かに瀧本の言うように、時間が経てば二人の距離は縮まるのかもしれない。だが明奈には、恋愛において重要な要素が一つ、圧倒的に欠けているのだった。色気だ。明奈はどちらかといえば美人の部類だ。だが凛ほどの美貌の持ち主ではない。それに凛と比べると、色気は皆無に等しかった。セイレーンにどっぷり浸かる自分は、女性を見る目が麻痺してしまっているのだろうか。そんなことを考えて、三浜は失笑した。くだらない。明奈でなくても、誰も三浜を満たすことはできないのだ、凛以外には。

8-3へと続く……

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