連載長編小説『破滅の橋』最終章 夜明けの灯火5-2
いくら祐里が説明しても同僚たちの考えはまるで鋼のように固く、動じることはなかった。同時にそれが世間の目なのだということを、祐里はまざまざと突き付けられた。
出勤時刻ぎりぎりに祐里はオフィスに入った。言葉を発するまでもなく、その雰囲気と、視線と、姑息な笑みで罵倒されることはよくよくわかっていた。しかしむしろ祐里のほうが、冷めた目を彼らに向けていた。
祐里は鞄を肩に掛けたまま、まっすぐ部長のデスクに向かって歩いた。卑しいものを見るような部長の目に一瞬足がすくんだが、祐里は踏ん張りを利かせて部長を見下ろした。
祐里は鞄から辞表を抜き取ると、両手で差し出した。部長は封筒に目を落とした後、じろりと祐里の顔を見上げた。祐里は動じず、まっすぐな目で部長を見据えた。
部長が封筒を掴んだのを感じると、祐里は一礼してくるりと向きを変えた。この会社に、未練はなかった。それでも去り際に憂うように祐里を見た美樹の顔だけが愛おしく思えた。
しかし迷いはなかった。昨夜帰宅した時、彼女は峯本に退社の意を伝えた。彼も、それを認めてくれた。「そんな思いをしてまで働いてくれだなんていえない」と峯本はいった。彼の自然な笑顔が、その言葉が本音であることを保証していた。
決して贅沢な暮らしはしてこなかった。だから貯えもある。しばらくは浩平君と二人でのんびりしよう、と祐里は思っていた。だから、去り際に島本に呼び止められても祐里は振り返らなかった。
肌を刺すような乾いた風が首筋に吹き付けた。先日カットした襟足がひどくすうすうする。祐里は何か食べ物を買って帰ろうかと思ったが、結局まっすぐ帰宅した。
鍵を開けて部屋に入ると、柔らかく笑みを浮かべた峯本が出迎えてくれた。手で目隠しをされたまま靴を脱ぎ、リビングに上がった。微かな焦げた匂いが鼻をついた。
「目を開けて」
彼に促されて祐里は目を開けた。テーブルの中央に雪を被ったような真っ白なホールケーキが置かれている。ゆらゆらと踊る炎の下に、蝋燭がぼやけて見えた。ケーキの中央に飾り付けられたチョコレートには『ゆり、今までありがとう』と白いチョコペンで書かれていた。
祐里は思わず涙ぐんだ。「何これ……?」
「今日は俺が告白したあの日からちょうど一年なんだ。俺たちの、一年記念日」
祐里は肩を揺すりながら手で顔を覆った。指の間から卓上カレンダーを垣間見たが、祐里は最近の心労のせいで、記念日を白紙にしていた。
ケーキを用意してくれたことに感動した。彼から何かを贈られたのは初めてだった。大切なのは物の価値なんかじゃない。このケーキに込められた彼の想いだ。彼からもらったプレゼントの価値はダイヤモンドを軽く凌駕する。
何より、彼が二人の記念日を正確に覚えていてくれたことがたまらなく嬉しかった。祐里は声にならない泣き声を喉の奥で鳴らしながらいった。
「どうして今までありがとうなんよぅ?」
それは、といって峯本は笑った。「たまたま祐里が仕事を辞める日と重なったから。今までの感謝の気持ちを伝えないとって思ったんだ」
祐里は手の甲で涙を拭うと赤い目をしたまま炎を吹き消した。その時、目の端に映った峯本の顔が恐ろしいものに祐里には見えた。不意にその時、彼が焼け死ぬのだけは嫌だと話していたことを祐里は思い出した。
部屋の明かりをつけ、祐里はケーキから蝋燭を抜いた。昼食を済ませた後、二人でケーキをいただいた。彼の気持ちが籠っているせいか、より甘く、より香ばしく、より美味だった。
心なしか、顔が冴えた気がした。彼も同じことを指摘した。
午後三時を過ぎた頃、インターホンが鳴った。
「俺が出ようか?」
ううん、と祐里は首を横に振った。「私が出る」
祐里はのっそりと立ち上がり、玄関に向かった。来客の顔を確認した祐里は険しい表情になって振り返った。
「追い返そうか」祐里がいった。
「誰?」
「シン――井崎刑事」
まだ何か用があるのかと峯本は刑事に毒づいた。以前刑事から聞き込みを受けた事件ではきちんとアリバイがある。それに被害者とは一切の面識がなかった。疑われる筋合いはなく、祐里は井崎に抗議の電話を入れたのだ。
峯本は祐里のそばに立ち、ドアスコープを覗いた。「開けてやろう」
「いいの? だってまたありもしないことで疑われるかもしれへんで」
峯本は弱く笑った。
「それは全部、俺が過去に犯した罪のせいだろう。仕方がない」
そういって微笑む彼の姿は、山で湧き出る水のように澄んでいた。理不尽な警察捜査を受け入れられるほど、彼の心は成長していたのだ、と祐里は思った。
祐里はドアを開けたが峯本を自分の体で刑事から遠ざけた。彼女は峯本を背に、身構えていった。「何?」
井崎は首をすくめたまま立ち尽くしている。その姿に、懺悔の念が滲み出ているように祐里は感じた。
「じつは前に峯本さんに聞き込みを行った事件が先日解決したんだ」
「そんなことを伝えにわざわざ住所を調べて来たん? 解決したって、やっぱり浩平君は犯人と違うかったんやん。馬鹿らしい。まずは謝るのが常識やろ」
祐里、と背後から峯本の声がした。なぜか、窘めるような口調だった。
だから、と井崎はいった。「謝りに来た」井崎は謝意を目に灯しながら峯本を見た。一礼すると、失礼をお許しください、といった。
峯本は快くそれを許した。なぜあのような扱いを受けて赦せるのか。祐里は唖然として峯本を見たが、すぐに切り替えた。
「話はそれだけなんやろ。もう帰って」
「いや、まだ終わってない。二人には犯人を知っておいてもらいたい」
祐里の背中が強張った。
「どういうこと?」声を震わせながら祐里はいった。無意識に後ずさると、右足が地面に擦れた。ジャリ、という音が耳に心地よくなかった。
「俺が峯本さんを疑った経緯を知ってるか?」
祐里は首を横に振った。「知らない」
「被害者と繋がりのあった人物の中に小山尚美という女性がいた。俺はその女性と峯本さんが一緒にいるところを見たんや。それでもしかすると、峯本さんが事件に関わっているのではと考えた」
祐里は峯本を振り仰いだ。彼は井崎の述べた疑われた経緯を知っているらしく、黙ったまま祐里に頷き掛けた。
「小山尚美さん?」祐里は呟いた。
井崎は背広の内ポケットから尚美の顔写真を取り出した。「これがその小山さんだ。でも彼女も結局犯人ではなかった」
写真を見た祐里は視線を落とし、親指と人差し指を顎にやった。少し考えた祐里ははっとして峯本を振り返った。
「あの時の人だ」
よく覚えている。彼がアルバイトの面接に落ちて、放心状態で帰ってきた時のことだ。路上で突っ立っていた彼をアパートまで送り届けてくれた人。
しかし峯本は首を捻って苦笑した。
「知ってるのか?」井崎が窺い見て祐里に訊いた。
うん、と祐里は頷いた。
「それで、犯人は?」
「島本和矢。祐里の元いた職場の先輩社員だ」
峯本は驚いた様子だったが、祐里の受けた衝撃は遥かその上をいっていた。え、と祐里が弱々しく発した声が、通りを走り抜けたバイクのエンジン音にあっけなく打ち消されてしまった。
「どういうこと? 島本さんが犯人?」
「島本は直接被害者との繋がりはなかった。だから容疑者としてなかなか浮上しなかったんだ。でも現場付近の防犯カメラに映る人物全員を調査していくうちに、島本が事件の少し前にインターネットで果物ナイフを購入した履歴が見つかった」
果物ナイフ、と井崎がいったことに峯本の体が反応した。
「何で……何で島本さんは面識のない人を殺したりしたん?」祐里は井崎に尋ねた。
「島本の供述によると、祐里と峯本さんが一緒にいるところを目撃し、峯本さんの過去を知った。また、俺が峯本さんと小山さんを見かけたように島本も二人を目撃。峯本さんの浮気を確信した。どうにかして祐里を峯本さんから引き離そうと考えてる内に、小山さんと被害者が仕事で関係性のあることを知った。峯本さんに濡れ衣を着せようとして、犯行に及んだ。標的は誰でもよかったんだそうだ」
祐里は、思わず溜息を吐いた。
「そんなの身勝手過ぎる」祐里は憤慨していった。「私を浩平君から引き離そうなんてただの綺麗事やん。島本さんはずっと私のことを口説いてた。島本さんは浩平君から私を遠ざけようとしたんじゃない。私を手に入れるために浩平君の過去を悪用したんや」
「俺が伝えたかったことは以上だ」
井崎はもう一度峯本に謝罪すると祐里に頷き掛けて立ち去った。何ともいい難い気持ちになったが、どこか清々しさもあった。井崎を見送ると、祐里は振り返って笑った。
「浩平君の勝ちやね」
彼は笑わなかった。俯いていく顔からは、むしろ自分が島本を殺人犯にしてしまったというような責任を感じているように見えた。
それを見て、祐里の心に翳りが差した。
6へと続く……