連載長編小説『怪女と血の肖像』第一部 怪女 11-2
自宅まで阿波野に送ってもらい、天羽は直帰した。ポストに溜まっている郵便物を取り出し玄関を開けた。すでに午後八時半を回っていた。雨を気にする阿波野の運転のせいで、帰りは行きよりも時間が掛かったのだ。山道を抜けてからは、少し速度も上がったのだが。
妻の亮子は出迎えには来ない。捜査で帰りが遅いことなどしょっちゅうだから、特に心配されることもない。亮子も天羽と結婚するまでは警察官だったから、事情もよくわかっているのだ。
リビングに入ったが、妻の姿はなかった。息子の亮真もいない。手を洗おうと洗面所を開けると、洗面所から続く風呂場のほうでシャワーの音が聞こえて来た。妻は息子を連れて風呂に入っているらしい。手を洗っているとシャワーが止まり、お帰りなさいとぞんざいな口調で迎えられ、またすぐにシャワーから水が出る音がする。かと思えば何かを思い出したようにまたシャワーが止められ、「ごはん、ラップで包んであるから温めて食べて」と亮子は言った。返事をすると、天羽はリビングに戻った。
夕飯は生姜焼きだった。他に盛りつけられたサラダがテーブルにあり、白米と味噌汁の茶碗は逆さまに置かれている。いつものことだ。天羽は生姜焼きをレンジに入れて温めた。それを待つ間、食器棚とテレビの間に置かれた位牌の前に立ち、写真立てに入れられた弟の写真を手に取った。遺影ではない。写真だ。
天羽が遺影と呼ばないのは、弟の死が未だ確認されていないからだった。
今から十五年前、弟の真太が失踪した。真太が十九歳、天羽が二十二歳の時だ。高校までの真太は引っ込み思案でうまく周囲に溶け込めず、兄である天羽に心配を掛けさせていたが、大学に進んでからは心機一転少し明るくなり、活発な青年へと変化しつつあった。それは兄である天羽にとって喜ばしいことで、真太からはそれまで聞かなかったような友人との話などを聞くようになった。
それから少ししてその友人らと旅行に出掛けたのだが、その最中真太は姿を消した。友人からの連絡を受けて天羽も捜索に出掛けた。彼らは富士山周辺を散策しに河口湖に旅行に出掛けていたのだ。旅行のメンバーは真太を入れて四人で、当時天羽もたまに使っていた軽自動車で河口湖に行っていた。真太は途中の休憩所で忘れ物をしたと言い残して一人引き返し、結局河口湖には戻ってこなかったらしい。その休憩所や周辺も探ったのだが、真太は見つからなかった。天羽が現場に向かった天羽家の自家用車で友人を東京に連れ戻し、その後警察に捜索願を届けたが、本格的な捜索が行われたかは疑わしい。
それから少しして事態は急変した。大学四年で就職活動中だった天羽の元に真太の乗っていた車が見つかったと連絡があった。車が見つかったのは品川だった。しかしそこに真太はおらず、車には鍵が差さったまま乗り捨てられていた。
その後も天羽は時間の許す限り弟の捜索を続けたが、両親の心が折れてしまった。天羽の両親は次男がどこかで生きていると信じたいが、それよりも、どこかで亡くなっている可能性のほうが極めて現実的であり、それならば、せめて供養だけでもしてやりたいと言ったのだ。そのため遺体は見つからないまま葬儀が催された。
真太の葬儀がどれだけ空々しく、虚無感に覆われたものだったかを、天羽は今もはっきり覚えている。その時の真太の遺影を見て、天羽は絶対に弟の無念を晴らすと誓った。生きているのなら、必ず見つけ出してみせると誓った。だからその時すでに内定を得ていた一流企業を蹴り、警察学校に進んだのだ。
まさか自分が警察官になるなんて思ってもみなかった。だがそんな天羽を突き動かすほど、弟の失踪事件は大きなものだったのだ。警察学校を卒業し、所轄に配属されてからというもの、天羽は目の前の事件を解決するのと同時に、弟の捜索を続けた。似たような失踪事件が発生していることを聞きつけてからは、それらの捜査資料にも目を通してきた。だから今回、丹生脩太の失踪の概要を耳にした時、胸騒ぎを感じたのだ。
遂に来た――。弟の無念を晴らす時が遂にやって来たのだと天羽は思った。そう思うと武者震いするのと同時に急に怖気づいても来て、足が震えた。こう言っては若林署長をはじめ捜査本部の全員から激昂されるかもしれないが、天羽は正直樽本京介を殺害した犯人などどうでもよかった。警察官の風上にも置けないやつだと部下に見損なわれるかもしれないが、天羽にとっては丹生脩太の失踪事件のほうが重要だった。丹生脩太が樽本京介を殺害して失踪したのなら、都合がいい。
自分は弟の事件の真相を突き止めるために警察官になったのだ。町の治安や正義のために働いて来たのは事実だが、そんなものよりも大事なものが天羽にはあった。弟の事件の真相を突き止められたのなら警察官を辞めてもいい。捜査方針に従わなかった責任を負い懲戒免職になっても構わない。それくらいの覚悟でこの十五年間警察官として生きて来たのだ。
「ようやくだ。ようやく真太の身に何が起こったのかを突き止める時が来たんだ。見てろ真太。俺が、兄ちゃんがすべて暴いてやるからな」
写真立ての弟は、まるで写真が生きているように鮮やかな笑みを浮かべている。天羽はそれを見て、生身の弟が笑ったように思えて、口の端を曲げた。
「生姜焼き、もうできてるよ」
レンジを指差しながら亮子が言った。いつの間にか風呂から上がって来ていた。短い茶髪をバスタオルでぐしゃぐしゃに拭いている。不満そうに引き締まった口元はいつものことだ。亮子は結婚後亮真を出産して専業主婦になったが、その頃から恋人だった頃とは雰囲気が変わって、仕事人間の夫に愛想を尽かしてしまった。だから今も、生姜焼きを温め終わったとは言ってもテーブルに出しておくようなことはしない。
「お父さんお帰りー」と三歳の息子は駆けて来て、天羽の太腿に抱きついた。そっけない妻とは違い、ホームドラマのようなきらきらと温かいお帰りだ。
天羽は亮真を抱き上げた。まだまだ軽い。ただいま、と言うと亮真は母によく似た形の違う左右の目をくしゃっと細めるようにして笑った。
「雨、大丈夫だったの?」と妻はどうでもいいことのように訊く。
「何とか。車に乗ってから降り出してきたから。帰りも家の前まで送ってもらった」
「古藤君?」と妻は訊いた。
亮子と古藤は天羽の三歳下で、警察学校時代の同期だった。天羽が自宅に誰かを招くなんてことは滅多にないが、亮子と古藤のよしみで、天羽が捜査一課から武蔵野署に横滑りしてからは、何度か古藤を自宅に招いたことがあった。
そういえば、亮子がそっけなくなったのは天羽が左遷された時期とも重なる。仕事に集中してしまうあまり部下に高圧的な態度を取ってしまい、パワハラが認定されたのだ。武蔵野署に異動してからはそのようなことはないように心掛けているし、家庭でも決して亭主関白ではないのだが、夫がパワハラで左遷されたとなると亮子の虫の居所もよくないのだろう。近所ではパワハラ夫とでも噂されているかもしれない。
もしかすると亮子は結婚を後悔しているかもしれない。仕事のできる先輩刑事と結婚したのはいいものの、その後はパワハラ、左遷、家庭を顧みない仕事人間――いいところなど何一つない。その点同期で優秀な古藤は近々捜査一課に引き上げられるのではという話も持ち上がっている。手足も長く見栄えもいい。
左遷されてからの俺ではとても敵わないな、と天羽は心の中で苦笑した。
「いや、阿波野っていう今年配属された部下だ」
「古藤君は元気にしてる?」
「ああ、大活躍中だ」
ふうん、と亮子はどうでもいいことのように鼻を鳴らし、亮真を手招きした。ドライヤーをするためだ。息子が自分の膝の上に座ると、亮子はドライヤーのスイッチを入れた。
天羽はレンジから生姜焼きを取り出して、ラップをめくった。
12へと続く……
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