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連載長編小説『滅びの唄』第六章 焔の記憶 4

 まだ明るい夕空の下で、灰の劇場の地面が光った。その光に照らし出された人影が入念にライトの位置や角度を調節しているのが、市道から見てもわかった。長く垂れた袖がシルエットになって動くから、舞を舞っているように見えた。
 本番前夜の今日はリハーサルとして株式会社清樹に劇場が貸し出されているのだが、高瀧はまるで演奏しようとしない。貴重なリハーサルの時間を邪魔してはいけないと思っていた杉本だが、しばらく待ってみても演奏する気配がないので劇場の中を進んだ。杉本に気がついた高瀧は、刹那警戒の色を滲ませ、しかしすぐに巧妙な愛想笑いを浮かべた。
「この劇場、なくなるようだね」
 先に口を開いたのは高瀧だった。
「はい」と杉本は頷いた。「来週には閉鎖されます」
「それは残念だ」
「残念?」
「ここでのコンサートはかけがえのないものだったからね」
「それはあなたのコンサートのことを言っていますか?」
 高瀧の表情が強張った気がした。
「何が言いたいんだ?」
「あなたは二十年前の火事があったコンサートに参加していたんですね。そしてその時に珠里を火の手から救った」
「どうしてそれを?」
「珠里が記憶していたんです。あの日彼女が見たことはすべて打ち明けてくれました。その中にあなたに救われた話もありました。高瀧さん、あなたどうして珠里との出会いについて嘘なんて吐いたんです?」
 さすがの高瀧も顔から愛想笑いが消えた。まさか二十年前の火災の時に天才歌姫を救い出したのが自分であることが露見するなど考えもしなかったのだろう。高瀧は言い訳もしないで、あるいは今必死に考えているのか、杉本に背を向けてライトアップされたステージ上を不規則な進路で歩いている。
「さっきも言ったように、もうこの劇場は閉鎖されます」杉本は言った。「そうしたら、ここで珠里と会うことはできません。このままだと珠里が工事に巻き込まれてしまう。でも珠里をここから遠ざけるのはそう簡単な話じゃない。両親の姿が見えると珠里は言う。高瀧さん、洗脳を解いてください。両親の亡霊から解放されるきっかけになるかもしれない」
「僕は洗脳なんてしていないよ。珠里が両親の亡霊のことを口にした時は僕も驚いたくらいだからね」
「じゃあどうすれば珠里をここから助け出せるんですか」
「そんなこと僕に訊かれても、それは彼女の問題だろう。それに、ここを離れられたとして、君は彼女をどうする気だ」
 高瀧は冷めた口調で問うた。こちらには背を向けているため表情は窺えない。杉本は、祠に一瞥をやってから答えた。
「もちろん、俺が養います。だから珠里がここを離れられたら、お願いですから珠里を手放してください」
「まだ二十そこそこの君が、大人の女性を養っていくのか? そんな余裕があるのかな。今の彼女は働きにも出られない、家事もやったことがない、家にいても、君の生活の弊害になるだけだと思うが」
「珠里には歌がある」
「何?」
「疲れて帰った日でも、その歌声で疲れを癒してくれる。家事は今まで通り俺がやる。その中で珠里が興味を示せば、手取り足取り教えて、分担すればいい。それに、いずれ珠里の存在は公表する。そうすれば、珠里だって外に出て、何か仕事を見つけられるかもしれない。あるいはまた歌手として活動する日が来るかもしれない」
「ふざけたことを抜かすな!」高瀧は長く垂れた裾で草を薙ぐように腕を振り、杉本のほうを向いた。「今日まで彼女を養い、面倒を見て来たのはこの僕だ。毎月食料を準備し、二ヶ月に一度必ずコンサートを開いて彼女に会いに来た。その日以外でも、時間を見つけて彼女に会いに来たこともあった。どれほどの思いで今日まで彼女を育てたと思っている。彼女には歌があるだと? ふざけるな! 彼女の才能をどうして君に引き渡すことがある。誰よりも彼女を理解し、その才能を愛しているのはこの僕だ。ああ、どうして僕はこうもお人好しなのだろう! 君はさっき、どうして彼女との出会いで嘘を吐くのかと言ったね。真実を答えてやろう。僕はあの日、当時の交際相手に頼まれてこの劇場に足を運んでいたんだ」
「交際相手? どうして恋人がそんなことを?」
「当時の恋人は僕の二つ歳上で、コンサート当日にどうしても外せない試験があったんだ。僕はまだ二年生で時間に余裕があったから、その恋人のお願いを聞いたわけだ。そのお願いは何だと思う? それはこうだよ。どうしても嫌な予感がするからS市のコンサートに行ってほしい、もし何かあったら姉夫婦を助けてあげてほしい」
 杉本の全身に衝撃が走った。まさか――いや、何も迷うことはなかった。二十年前、彼女はちょうど二十二歳で年齢は大半の大学四年生と合致する。そして、変な男と付き合ってたよね、という佳代の言葉、それを否定しなかった和泉真梨――間違いなく、和泉真梨の当時の恋人は高瀧だった。
「まさか、助けてほしいというその言葉を利用して……」
「人聞きが悪いな! コンサートに足を運んだのも、五歳の歌姫を助けたのもすべて良心だ」
「じゃあどうしてすぐに珠里の生存を公表しなかった!」
 高瀧は言葉に詰まった。まるで刃物を突き付けられでもしたかのように肩を強張らせ、顔を歪めていた。
「……になったんだ」
 杉本は身を乗り出した。「何だって?」
「だから、好きになったと言ってるんだ。初めは良心だけで彼女を救った。だが実際に耳にしたあの歌声に惚れ込み、どうしても手放したくなくなった。だから彼女を育てることにした」高瀧はふふふ、と低い奇妙な笑い声を発した。「自分でも驚いたんだ。その後大人へと成長した彼女に恋をしてしまったことを」
「やっぱりあんたは――」
「誰が何と言おうと彼女をここまで育て上げたのは僕だ」
 その時、祠のほうで人影が動いた。そちらに目を向けると、珠里が姿を見せていた。高瀧は気づいていない。彼女はこっちに近づいてくる。杉本は高瀧に気づかれないよう小さく首を横に振ったが、珠里が気づくことはなかった。
「そんな想いを伏せながら、今まで献身的に彼女を支えたこの僕から、何も知らない君がどうして彼女を奪おうとする! 君のどこにそんな権利が――」
「珠里、今は来ちゃだめだ!」
 夜の仄暗さの間を縫うように、珠里はステージ上に現れた。高瀧ははっとして振り返り、珠里の肩に手を回し、杉本と距離を取らせた。
「どうしたの、そんなに大きい声……喧嘩?」
 杉本は奥歯を噛んだ。高瀧は珠里に寄り添うように、彼女の肩に手を回しているが、杉本には人質を取られたようにしか見えなかった。
 珠里を救うのは使命なのに。
杉本は、祖父母の形見である御守りを握りしめた。その瞬間、珠里の顔が青ざめるのを確認した。いったいどうしたというのか。
「しまって!」
 夜空に響き渡る、甲高い声だった。珠里は肩を震わせて、杉本の手元を指差している。
「凌也、そのライターしまって」
「これは俺の御守りだ。この前ばあちゃんが亡くなったって話しただろう? そのばあちゃんが生前大切にした、じいちゃんの形見なんだ」
「それ、パパのライター」
「え?」
 杉本は祖父の形見である稀少なライターを見た。所々漆が剥がれている鉄製の灯油ライターだ。今でも火は点く。ライターの側面を撫でると、金箔で模られた龍の彫刻が親指の腹を刺激した。
「どうしてそれを凌也のおじいちゃんが持ってるの? そのライター、ハハハ……ハハハ……そのライターの火が、ガソリンに引火したんだよ?」
 杉本は強烈な吐き気を催した。鳩尾を殴られた時のように、胸の辺りがぐるぐると回って気持ち悪かった。まるで考えなかったことが珠里の口から発され、杉本は膝から下の感覚を失った。立っているのがやっとだった。
 茫然とライターを見下ろした。
 火災の後、煙草の量が増えた祖父――それは煙草を吸う度にこのライターを見て、実際に発火させてしまったのが自分であることを忘れないためだったのではないか。癌を患ってからも頑なに煙草をやめなかったのは、森岡一家への贖罪のためだったのではないか。祖父は自分の罪を最後まで背負って死んでいったのだ。
 そして初めて珠里と会った時――暖を取らせようと火を灯すと彼女はひどく怯えた。杉本は火災のトラウマで火が怖いのだと思っていた。しかし実際に珠里が拒否反応を示していたのはこのライターのほうだったのだ。珠里はこのライターが地面に落下するところを見ているのだから。
 掌に衝撃を感じて、杉本は我に返った。瞳が震えて、視界が定まらない。高瀧の背中だけが見える。杉本はそれを見て、高瀧にライターを奪われたことを悟った。
 視界にぼんやりと火が灯った。
「珠里」と高瀧は言った。珠里は間近にあるライターを怖がり、顔を背けている。「もうここから離れないといけないんだ。僕と彼、君はどっちを選ぶ?」
 珠里は目元をしかめながら杉本のほうを見た。火に照らされる珠里の頬は赤々としていて、瞳は普段より一層黒々として見えた。その瞳は、もはや自我を失っているように杉本は感じた。
「卑怯だぞ。こんなの脅しじゃないか」
高瀧はにやりと口元を曲げた。「ほら珠里、答えなさい」
「その火、どうするつもりなの?」珠里は恐る恐る訊いた。
「べつにどうもしないさ。ただ、彼が暴力を振るわないとは限らないからさ」
「珠里、そいつはヒーローなんかじゃない! このままだと珠里は一生今のままだ。今の珠里がここにいるのは高瀧のせいなんだ」
「パパ……ママ……」
「ほら、答えなさい」
 珠里は目を剝いた。そして高瀧を突き飛ばすと、杉本のほうに駆け寄って来た。杉本はライターが落下するのを恐れたが、高瀧はライターを離さなかった。
「どういうことだ」高瀧は言った。
「嘘だったのね。木々との対話も、自然との調和も」
「珠里、何を言ってる? 嘘なんかじゃない。僕は小さい時からずっと――」
「じゃあ今そうやって火を灯して、木々はどう言ってるの? 火事になったら、道路にある木も燃えちゃうかもしれないんだよ。そんなことも考えられない人が木と話なんてできるはずがない」
 珠里の言う通りだと思った。高瀧は我に返った様子で市道に目をやったが、ライターの火を消すことはしなかった。
「それが……答えなのか?」
 珠里は、杉本に身を預けて頷いた。杉本は珠里を抱きしめて、高瀧から距離を取った。何をしてくるかまるで予測ができなかったからだ。
「珠里、あの日歌っていた唄を聴かせてくれないか」
 そう言うと高瀧は火を消し、それから必死に身を屈めて祠の中へと入っていった。
 珠里は戸惑いながらも、杉本の胸の中で歌声を披露した。杉本は聴いたことのない曲だった。歌詞はないらしく、文字にするとAhだろうか、そういうふうに楽譜に書かれているのを学生時代に見たことがあるが、まさにそんな感じだった。
 これがあの日珠里が舞台上で歌っていた曲。それ以来珠里が自ら歌うのを禁じた曲。――滅びの唄。
 それを今、彼女は命の恩人のために封印を解いた。歌詞はないのに聴き入ってしまう、この夜空のどこまでも声が延びていくように感じる、不思議な曲だった。
 やがて高瀧が這い出て来た時、すでに何か異臭がしていた。
 ガソリンだ。
 杉本はまさか、と思った。
 高瀧はガソリンがまだ残っているタンクを放り投げ、杉本がそちらに目を逸らした瞬間劇場に火を放った。一瞬の内に熱気が広がった。そして点火した火はあっという間に燃え広がり、夜の底が赤くなった。倒壊寸前だった柱や梁はあっという間に燃え落ち、それに誘発されるように燃え上がった焔が高瀧の姿を飲み込んだ。
 柱の倒壊する音に反応したのか、珠里は歌うのをやめた。
「高瀧さん!」
 杉本の腕の中で珠里は必死にもがいた。ようやく高瀧の本性を知った珠里だったが、命の恩人なだけあって、情けは残っているのだろう。
 しかし杉本は必死に抱き止めた。
「だめだ珠里。今行ったら死んでしまう」
「でも高瀧さんが!」
「もうだめだ。助からない」
 しかし珠里は「高瀧さん高瀧さん」と名前を呼び続けた。
 とにかく消防車を呼ばないといけない。しかし珠里が唸りを上げる焔の中に入っていく可能性もあり、一時も目を離せない状態だった。
 珠里は、その場に頽れた。
「まただ……また滅びの唄を歌って、火事に」珠里は洟を啜った。「高瀧さん、こうするつもりで私に歌わせたんだ……」
「珠里、ここも危ない。一旦離れよう」
 珠里を抱き上げ、なおも広がり続ける焔から逃げ出そうとしても、いつか感じたあの圧迫感はなかった。珠里も、両親のことは何も口にしなかった。

エピローグへと続く……

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