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連載長編小説『別嬪の幻術』18
18
風の強い夜だった。暗闇の中でも、窓を透かす月光に部屋の中は少し青い。それでも目を閉じれば僅かな青も闇に呑み込まれる。真っ暗闇だ。眠れない夜だった。暗闇の中で、疑念が渦を巻いていた。その渦にいつしか引き込まれて、昨日見た光景に順序も羅列もなく、ただひたすら感情的に、僕の脳は熱を持っていた。それとは対照的に、僕の心は冷え込んだ。木枯らしも吹いていないのに、雪が積もり始めたかのように。
眠れないのなら、いっそ眠らないでおこうと思った。結局眠りに落ちたのは朝日が古都を照らし出してからだった。正確な時間は見ていないのでわからない。ただそれまでの時間、どれだけ落ち着こうとしても、何も考えないでいようとしても、千代の実家に入っていく洞院才華の姿が網膜にこびりついて離れなかった。明けない夜はない。上る朝日にそれを実感した。だが眠れない夜はある。頭は重く、目は痛い、胃がせり上がってくるような不快感で体は警鐘を鳴らしているのに、目だけが冴えていく。まったく理不尽な夜だ。
目が覚めても体は重く、眠った気はしなかった。たぶん眠りも浅かっただろう。夢は見ていないが。昨日もシャワーを浴びたが、僕は今朝もシャワーを浴びた。鼻腔の通気性が改善されたが、気怠いのに変わりはない。これはもう、精神的な問題なのだろう。どうすることもできない。時刻はすでに午前十時を過ぎていた。髪を乾かすと、前髪をさっと分け、自転車で松尾大社に向かった。野々宮からは先に現場に向かっていると連絡が入っていた。
目を瞑っていても松尾大社にはたどり着けるだろう。それくらい脳に刷り込まれた道を行き、十一時を過ぎた頃に松尾に着いた。野々宮は僕が自転車で来たことに驚いていた。バイクはないのかと言われたが、ない。生活範囲は北白川一帯で事足りている。アルバイトで河原町まで出向くことはあるが、一乗寺からだとそれほど遠くはない。そんな生活だから、ペーパードライバーになってしまったのだ。
僕は昨夜眠れずに予定より遅れてしまったことを詫びた。野々宮は構わんよと言ったが、僕には寛容というよりも危機感がないように思えた。良くも悪くも、野々宮はのんびりした男だ。良い報告と悪い報告があればどっちを先に聞くかわざわざ選ばせるような刑事だ。しかし行動力はある。重要な証拠を見つけたと言えば翌朝には京都に駆けつけている。
「実況見分は今日でよかったのか? 普通最初にやらないか」
「昨日は天皇帰還説支持者に一斉に話を聞いてたんだよ。東京でもな。タイミングを合わせないと口裏を合わせられるかもしれない。たぶん昨日の朝の段階では連中もテロ計画が警察にばれてるとは思わなかっただろうからな。東京の事件が起きてからもう一ヶ月半が経つ。こっちにしてみれば京都の捜査員の都合なんて待ってられないわけだ。だから聞き込みは昨日。おまえは容疑者じゃないし、容疑者だとしても逃げない。だから今日でもいいんだよ」
なるほど、と僕が納得すると、野々宮は東京に残る捜査員による聞き込みの結果を教えてくれた。早瀬と尾高のアリバイだ。駒場敬一が殺された日の夕方、早瀬は党本部で小会議に出席していた。それから今日までの間で京都に戻った日はなく、佐保と風見の事件についても関わることは不可能だった。尾高も似たようなもので、駒場敬一が殺害された日の夕方は宮内庁のオフィスで業務中だった。早瀬と同様、連続殺人事件が発生してからは京都に足を踏み入れていない。ただし二人とも、駒場敬一が殺害された現場は職場の目と鼻の先であり、一時抜け出して犯行に及ぶことはできなくもない。だがそんな不自然な動きは見せていないとのことだった。
関係者のアリバイを確認したところで、二人は赤鳥居から月読神社に向かう路地を進み、佐保が殺害された土俵のある駐車場に入った。その後赤鳥居に戻り、今度は渡月橋へと続く路地を行き、風見が殺害された場所を確認した。三度赤鳥居に戻ると、今度は月読神社へと向かった。そこで僕は証拠品を見つけた時の動きをできるだけ忠実に再現した。解穢の水の甕を野々宮はじっと見つめている。証拠品を見つける際に壊した木板はすでになくなっている。だがその破片は少しばかり残っていた。野々宮は木板の破片を採取した。おそらく茶封筒と同じ三人の指紋が検出されるだろうと言い、それで思い出したように、茶封筒の二つ目の指紋は洞院才華のものと一致したことを報告した。昨日洞院才華の指紋が付着したコーヒー缶を野々宮に渡していた。それと一致したそうだ。
実況見分が終わると赤鳥居まで引き返しながら「犯人はたぶん女だ」と野々宮は言った。それを聞いた瞬間、僕の心臓が跳ねた。一瞬のうちに耳が熱を持ったのがわかる。
「どうしてそう思う?」
「手のサイズだ。封筒にはおまえと洞院才華、そしてもう一人の指紋が付着していたが、おまえの指紋だけ大きい。男と女じゃ手の大きさはまるで違うだろう。もう一人の指紋は、洞院才華とそう変わらないサイズだった。それに別の指の指紋が裏面にもついていた。封筒を握った時に裏面にも触ったからだろう。指紋の位置から手のサイズを推測しても、女性の手である可能性が極めて高いという結果が出てる」
天皇帰還説支持者の中にも女性はいた。もちろん、その女性の中の誰かという可能性は考えられる。だが僕はまったく別の人物を思い浮かべていた。千代だ。洞院才華の信頼できる友人……。昨日の光景は見間違いではなかったか? 一晩中頭を占めた悩みがまた僕を襲う。千代は洞院才華を軽蔑していたではないか。あれはいったい何だったのか。嘘を吐いているというのか……何のために……。殺人事件への関与――そんなはずはない。千代は、佐保が殺害された夜こそアリバイはないが、風見が殺害された夜は僕と一晩中一緒にいた。駒場敬一が殺害された日は……東京にいたけど、彼女は明治神宮にいて、犯行は不可能だ。千代のアリバイは僕が証明している。真綾という第三者による証明も可能だ。千代が犯人のはずがない。これは古都大生絡みではなく、天皇帰還説が発端となっている事件なのだから。
でももし、千代が洞院才華に操られているとしたら……。夢催眠で殺人鬼に仕立て上げられた人物が三人いて、その一人が千代だとしたら、佐保を殺すことはできたかもしれない。そこに動機など必要ないのだ。プログラムされた機械のように、ただ殺戮を繰り返す人の形をした肉、それさえあれば、洞院才華はどこにいても事件を起こすことができる。
人の心が僅かばかり残っていて、それが犯行にシャガを使わせたというのなら、それも納得のいく話だ。だが千代が殺人犯などと、僕は絶対に認めない。でも嘘を吐かれていたのだとすれば、こんなにも大きな嘘を吐かれていたのだとすれば、僕は千代を許せない。
野々宮は松尾署に戻り、今日は柏原刑事と協力して捜査を行うと言った。僕は自転車に跨り、松尾橋を渡り、四条通を烏丸通にぶつかるまでまっすぐ進んだ。烏丸通を北上し、丸太町通まで来ると京都御苑の前を走り、寺町通に折れた。少し迷ったが、このままでは誰も信じられなくなると思い、千代の実家に立ち寄った。
嘘を吐いているだろ、とは訊けなかった。部屋着姿で現れた千代に、「洞院才華の居場所を知らないか」と訊いた。千代は垂れた目尻に皺を刻むと、知るわけないやんと笑った。
「変なこと訊かんといてえや。気持ち悪い。丹羽市議にも同じこと訊かれたわ。知るわけないのに」
「丹羽?」予想外の名前に僕は思わず首を傾げた。
「どうしたん、怖い顔して……」
眉間に力が入るのがわかった。たぶん僕は今、眉間に皺を寄せて千代を睨んでしまったのだろう。だがそれは無理もない話だった。なぜ丹羽が洞院才華のことで千代の元を訪ねるのか……。それは丹羽が、千代と洞院才華の関係について何か知っているからではないのか。そしてその何かを知っているということは、丹羽自身、千代と面識があったのではないか。
しかし千代は「急に政治家が来てびっくりしたわ」と言うばかりで、知り合いだとは言わない。本当に洞院才華の居場所を知らないのかともう一度確かめたが、千代は首を縦に振った。
昨日見た光景を伝えようかと思ったが、見間違えただけかもしれない。そんなはずはないとわかっているのだが、ここに彼女がいるという確証があるわけでもなかった。千代は上唇を舐めるのと同時に鼻の下を伸ばした。その癖は、嘘を吐いている時に出るものでもなかった。
僕は結局、それ以上は訊けなかった。
19へと続く……