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連載長編小説『美しき復讐の女神』15

        15

 真っ白なロングコートに檸檬色のマフラーが鮮やかだ。そのマフラーに薄く紅の塗られた小さな唇が見え隠れする。アーモンド型の目は踊るように豊かな表情を見せていた。いつも通り束ねられたポニーテールに黄色のリボンのヘアクリップが添えられていた。小ぶりなリボンは、静かに和葉の魅力を引き立てていた。
 風情ある明治の街並みを背景に洋服を着こなす和葉は、まるで文明開化の象徴のように思われた。和と洋の融合は、確かに日本に変革をもたらした。
 そんな堅苦しいことを考えていたせいか、ベッコウ飴を食べていた隼人は、組飴を食べている和葉の手を握ろうと思った。しかし色鮮やかな組飴を口にする和葉の横顔はあまりにも可憐で、その上露になった項からは色気を感じてしまい隼人は手を取ることを断念した。
 薄化粧とはいえ、見慣れない和葉の化粧姿は隼人に和葉が女性であることを強く感じさせたのだ。
 その後もたい焼きや紫芋饅頭、醤油煎餅にみたらし団子、そしてさつまいもチップスを食べ歩きながら、時の鐘を二度耳にした。食べ物を食べていると、自然と会話はそれについての感想となり、また、次は何を食べようかという話に発展し、話題に事欠かない。さらには風情ある街並みに感嘆したり、石畳を歩くだけでも微笑ましい会話をすることができた。和葉は非常に楽しんでいる。それは見ていてよくわかった。陽も沈み始め、やや疲れが見えるものの、自然な笑みを浮かべられるというのは心から満喫してくれているという証だった。
 だが隼人は、お菓子を食べていても味がまったくしなかった。にも拘らず胃袋は確かに重みを感じて、とても満喫などできない状態が続いていた。それは和葉が美人であるために、すれ違う人達が明らかに彼女に注目するからだ。隼人が街行く男女をカップルだと推測するように、街行く人々も隼人と和葉をカップルだろうと決めつけた目で見るのだ。つまり、和葉に向けられた眼差しは、同時に隼人にも注がれている。隼人は、真っ白なコートを淑やかに着こなす和葉の横で、ジーンズに紺のダウンジャケットを合わせただけの不釣り合いな格好をしていた。それもあって、すれ違う人々からは嘲笑か、あるいは軽蔑を向けられている気がしてならなかった。
 ところが和葉は隼人の服装など気にする素振りも見せず、周囲の視線に臆せず組飴を隼人に食べさせたりした。隼人は、歩きながら手を繋いでいないのはやはり不自然に映るのではないかと感じた。それに、和葉も手を繋ぐのを期待して歩く時は普段より一層距離を縮めているような気がしていた。
 しかし隼人は、やはり和葉の手に触れることはできなかった。
 お菓子横丁からクレアパークに向かう道中、隼人は女性恐怖症を打ち明けてしまおうかと考えた。隼人は歩きながら、何度も和葉の手に触れようと思った。だが白く骨張った和葉の手を見てしまうと、どうしても手を繋ぐことはできなかった。
 せめて化粧をしていなければ――それだけでも、隼人に映る和葉の姿は変わったかもしれなかった。薄く輝く目元、いつもより濃厚で赤い唇、それは凛を思い起こさせた。和葉は凛と同じ女性なのだと隼人に強く思わせた。
「リフレッシュ、できてる?」
 陽の落ちたクレアパークは聖夜を祝福するために色鮮やかに彩られていた。その光を受けた和葉は間違いなく美しかった。
 和葉ははっきりと頷いた。
「楽し過ぎて、一週間くらい何もできないかも」
「困るよ、それは」
「冗談」和葉は檸檬色のマフラーにシャープな顎を収めて歩いた。「明日からまた勉強。でも本当に今日は楽しい。もう一年近く勉強しかして来なかったから、余計にね……」
「楽しんでもらえてよかった」
 隼人は足元に視線を落とし、言った。その直後、カシャ、と耳元で音がして顔を上げた。見ると、和葉がスマートフォンで隼人を撮影していた。
「相馬君は、楽しかった?」
「うん、楽しかったよ」言いながら、表情が消えて行くのを感じた。なのに目の前に輝くイルミネーションの光は、どんどん眩くなっていくように見えた。和葉は、撮影した写真を見つめている。「最近、いろいろあって沈んでたからさ」凛への憎しみが膨らんだせいで、口を滑らせてしまった。「人生山あり谷ありっていうけど、今の俺は谷底にいるから……久しぶりに山を登り始めた気がする」
「やっぱり何かあったんだね」和葉はスマートフォンを胸に抱き、呟いた。「でも、人生に谷底なんてないと思う」
「え?」
 一週間も学校を休み、その時毎日心配の連絡をくれた和葉が、隼人の身に起きたことを気にしていないわけがなかった。それでも事情を詮索しないのは、和葉の優しさだろう。気遣いに留まらない、隼人を想う気持ちがそうさせるのだ。
 隼人は和葉の懐の深さに感服しながら、訊き返した。
「どういうこと?」
「人は成長し続けるものだから、ずっと山を登ってる。特に今のあたし達は凄まじいスピードで色んなことを吸収して、大人への山道を駆け上がってる。でもどうしても休憩は必要だから、山を駆け上がるスピードを落とさないといけない時が来る。谷に向かってると思うのは、ずっと上を向いて駆け上がって来た山がまっすぐになったから。谷なんかじゃない。人生が下向く時なんかない。今の相馬君は、次の山道を登るために平坦な道を歩いてるの。だから谷に向かっているような錯覚に陥ってるんじゃないかな。下を向くから谷が目に入る。人は前か上しか見ないものだよ。だって、下向いてる暇なんてないもん」
 和葉は、イルミネーションの写真を撮った。
「相馬君に何があったのかはわからないけど、人って苦しい時が絶対にある。あたしも今、正直受験勉強が苦しい。きっとこの先の人生でこんなに苦しいことってないんじゃないかな。でも谷底にいるとは思わないよ。この一年、勉強ばっかりやって、確かに学力は上がったけど、やっぱり山を全力で駆け上がるのはしんどいから、何度も平坦な道を歩いた。下さえ向かなかったら、どんなに苦しくても谷には向かわないんじゃない? あたし、稽古に打ち込む相馬君にこれを教えられたんだよ」
「俺が……南野さんに?」
「うん。試合に負けてもひたむきで、下も向かずに稽古に打ち込む。倒れても倒れても立ち上がって、どんどん山を登ってた。そんな相馬君の努力する姿に勇気をもらってたんだよ」
「そうだったんだ……」
 ただ自分を鍛えるために打ち込んだ稽古が、まさか他の誰かの支えになっていたなんて、夢にも思わなかった。健気に微笑む和葉の可憐な表情が、隼人の心に平穏をもたらすように思わせた。
 やはり、彼女には打ち明けるべきなのかもしれない。この忌まわしい呪縛を。汚れた過去を。凛に掛けられた恐ろしい呪いを解く鍵は、和葉以外に考えられなかった。
「話が、あります」
 だが隼人は、そう口にして恐怖に震えた。トナカイがかぼちゃを引いている電飾を見ていた和葉は、緊張した面持ちで振り返った。何となく、アーモンド型の瞳には淡い期待が含まれているようだった。だが隼人は、その期待に応えられないことを思うと、辛くなった。そしてすべてを打ち明けた時、軽蔑せずとも失望するであろう和葉の姿を想像すると、胸が締め付けられた。
 果たして打ち明けるべきなのか?
 隼人は瞼を伏せて考えた。わざわざ和葉に女性恐怖症を打ち明けて、冷ややかに見られるだけのことにいったい何の意味があるというのか。このまま誰にも打ち明けず、一人静かに生きて行けばいいではないか。にも拘らず克服の道を模索するのは、矛盾した行為なのではないか。
 それに、凛につけられた傷を癒すために和葉を巻き込み、今度は和葉の心に傷をつけるようなことに繋がるのではないか。それは、避けるべきだ。
 目を開けると、イルミネーションに薄っすら照らされた和葉の顔が、まっすぐこちらを見据えていた。和葉は、小さな唇をきゅっと結んで待っている。隼人は、やはり和葉を巻き込むべきではないと思った。特に今は。
「ごめん……。やっぱり何でもない」
「気になるじゃん。どうしてもだめ?」
「今はまだ……」後回しにしても結局逃れられないとわかっていながら、隼人は言った。「南野さんの気を散らすわけにはいかないから」
 和葉はマフラーにふと顎を収め、数秒迷ってから上目遣いになって言った。
「ひょっとして……告白しようとしてた?」
「いや、違うよ」
「でも気を散らすわけにはいかないって」
「違うんだ。告白じゃない。……俺のことで、ちょっと」
「何か悩みがあるのなら、話聞くよ。もしかして、学校を休んでた理由とか?」
 こういう時、女性は本当に鋭い。隼人は、否定する間すら掴めなかった。
「もしそうなら」和葉が続けた。「もしまた学校を休んじゃう原因になるなら、相談に乗るから」
 隼人は顔の前で手を振った。
「今南野さんに余計な心配掛けて受験の邪魔をしたくないんだ。だから、大丈夫」
「そんなの、話があるって言われた後で隠されてるほうが余計に心配するよ。相馬君の悩みが気になって、勉強なんて集中できない。お願い、話して」
 隼人は苦悶の表情を浮かべた。これまで隼人のことを心配しながらも、和葉は事の重大さを察して事情を詮索して来なかったのだ。だがやはり、和葉の中で隼人の問題が大きな蟠りとして重く圧し掛かっていたのだ。詮索のきっかけを作ったのは隼人のほうであり、堰を切られた和葉の感情が留まるはずもなかった。
 隼人は、観念するしかなかった。
「女性が怖いんだ」人混みを避けたベンチに腰掛け、隼人は告白した。「二年前、凛の部屋で、凛に襲われて、その時の傷が今もずっと残ってる」呆気に取られる和葉をよそに、隼人は続けた。先日凛が家を出て以来初めて帰省したこと、そこで二年前のことを思い出してしまったこと、凛のせいで、罪のない和葉にさえも恐怖を感じてしまうことを伝えた。ただし、先日再び凛と肉体関係を持ったことや、異母姉弟であることは伏せた。和葉にとっては、隼人の女性恐怖症だけでも理解するのが苦しいだろうに、その上複雑な事情まで聞かされては混乱して情報が整理できなくなると思ったからだ。それに、わざわざ凛の出生まで和葉に教える必要はないと隼人は判断した。「だからこの前は、一週間学校を休んだんだ」
 隼人が話し終えてからしばらく、和葉は自分の両手を重ね合わせたままじっと黙っていた。しんしんと冬らしく賑わう広場の中で、和葉のすすり泣く声が小さく聞こえた。
 やはり失望させてしまった――隼人は、俯く和葉のポニーテールがいつもよりしょんぼりしているように感じた。これから顔を上げ、自分に向けられる和葉の目を想像するだけで全身に鳥肌が立った。
「苦しいね」か細い声が、顔を上げるより前に言った。「あたしが泣いちゃだめなんだろうけど、相馬君の苦しみを思うと、涙が出ちゃう。止められないの」
 和葉は顔を上げた。隼人を見つめる瞳は恐ろしいほどにまっすぐで、涙で濡れたアーモンド型の目は包み込むように優しかった。隼人を責めることのないその温かい眼差しが、隼人を救おうとしていた。
「だって」和葉は続けた。「やっぱり相馬君は強いなって思ったから」
「強くなんかないよ。凛の呪いに縛られて、二度と解放されることもないんだ。学校を休むほど苦しめられて、またいつ同じ目に遭うかわからないんだから」
 和葉は柔和な笑みを浮かべながら言った。
「それでも一週間しか休まなかったじゃん」
「それは、南野さんが心配してくれたから」
 和葉はかぶりを振った。
「ううん。前を向いたのは相馬君。前を向けたのは相馬君が強かったから。あたしなんて、何にもしてないよ」
 隼人は、和葉が合わせる両手を見た。
「失望したでしょ。武道やってるのに、女の子が怖いのかって」
 和葉の返事はわかっていた。だがその返事を和葉の口から聞きたくて、隼人はあえて訊いた。
「そんなことない。相馬君ならきっと打ち勝てる。あたしは強くなる相馬君をこの三年間見て来たから、断言する。それに――」和葉は組んでいた両手を放して、頬まで濡らす涙を拭った。「それに、この辛い話をあたしに話してくれて、こんなふうに言っていいのかわからないけど、嬉しかった」
 隼人は和葉の言葉に安堵して、声も出なくなった。顔を拭う和葉をちらっと見て、それからじっと地面を見つめた。
「あたしにできること、何かないかな?」
濡れていた頬を拭い切り、和葉は言った。しかし目と鼻が赤くなっていた。
「今まで通り接してくれれば……十分だよ」
 二人は立ち上がった。ショッピングモールに向かいながら、すぐ横を歩いてくれる和葉に隼人は安心した。
 女性恐怖症を克服する具体的な考えは思い浮かばない。でも、和葉が傍にいてくれるだけで、隼人は前を向ける気がした。和葉が傍にいてくれれば、いつか上を向いて山を登っていける。
 そんな気が、確かにした。

16へと続く……

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