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連載長編小説『別嬪の幻術』11-2
昼食は学食にした。今日は珍しく、出張販売が来ていた。吉野家だ。時々やって来る。僕は日替わりランチ扱いの吉野家の牛丼を店舗価格より三割ほど安い値段で食べた。千代は学食のナポリタンを食べていた。昨日の夜もイタリアンでパスタを食べて、よく今日の昼もパスタを食えるなと僕が言うと、千代は「味がちゃうから」と切り返した。確かにバジルソースとトマトソースはまったくの別物だが、問題なのはコーティングではなく麺のほうだ。パスタはどちらかといえば飽きるほうではないか。
どうやらイタリアンに、というよりパスタにはまっているらしい……。千代は鼻の下を伸ばしながら麺を口に運んでいた。とはいえ学食のパスタだ。物足りないらしく、千代は僕の丼鉢の上からひょいと牛肉を摘まんで食べていた。
十二時半を過ぎる頃には、お互い皿は綺麗になっていた。水を一口飲み、またテーブルに戻す。その時、僕のスマートフォンが着信を告げた。千代はさっきから、SNSを見ていた。野々宮、と表示された画面を見て、僕は一言断りを入れ、一旦学食の外に出た。千代はそっけない返事を寄越しただけだった。
「どうした?」学食の外のベンチに腰掛け、僕は訊いた。食堂の喧騒が窓の隙間から微かに漏れ聞こえるが、中にいるほどうるさくはない。電話の声もちゃんと聞こえる。まだ昼休みのど真ん中だから、学食の外を大勢が通ることもなかった。
今大丈夫か、と訊かれたので昼休みだから大丈夫だと答えた。お節介だが、ちょうど昼食も摂り終わったところだと言った。野々宮はへへ、とだらしない笑い声を漏らした。刑事も今は休憩中なのかもしれない。やっぱりなと言う野々宮は、僕がそろそろ昼食を食べ終わる頃だと見計らい電話を掛けて来たらしい。本当なら、午前中のうちに電話したかったそうだが、授業中だろうと思い遠慮したらしい。そんな遠慮は無用なのだが。どうせ欠伸をするだけのつまらない講義だと言うと、さすが天才の言うことは違う、と野々宮はおだてた。出席はしているが毎回鼾をかいている学生も少なくない。野々宮の天才の基準で言えば、講義中に鼾をかく学生は超天才ということになる。僕は欠伸ばかりしているが、講義自体はちゃんと聞いている。自動的な復習みたいなものだ。
それで、用件は何なのか。僕は訊いた。
「良い報告と悪い報告がある。どっちから聞く?」
どっちでもいい。良い報告と悪い報告……あたし何歳に見える……隠し味に何を使ったでしょう……今あたしは何を考えているでしょうか……試されているように思えて、あまり気分は良くない。それに答えて誰が得をするというのか。質問者だけが楽しむのは得ではなく横暴だ。
深い意味はないが、僕は悪い報告から聞くことにした。おっ、天才築山栄一君は悪い報告から聞くタイプですか、嫌なことを先に片付けるタイプ、苦手な食べ物は先に食べてしまう派ですね、と間抜けなことをだらだらと話している。やはり休憩中なのだろう。クイズをしている暇があるなら事件の一つでも片付けろと言いたくなる。それに僕は、面倒事は確かにすぐ片付けるが、苦手な食べ物はそもそも食べない。
一つ咳払いをして、野々宮は言った。
「悪い報告だが、長沢徹平についてだ。長沢の夏季休暇中の行動を少し調べてみたが、帰省中に洞院才華とは接触していない」
洞院才華と接触がなかったということは、夢催眠によって操られている可能性はなくなった。彼女の幻術は対象者の睡眠時に聴覚を刺激し、そこから暗示をかけていく。野々宮の報告では長沢はAIスピーカーを自宅に置いていないそうだから、いかに洞院才華といえども為す術はない。ただし長沢が駒場敬一殺しに関わりがなくなったわけではない。動機はあるし、アリバイはない。依然として東京で起きた事件の容疑者であることは間違いない。
しかし洞院才華は、捜査線上から消えることになるだろう。当然長沢とのSNSでのやり取りなども野々宮は把握しているはずだ。それもないということなら、洞院才華は駒場敬一殺しには無関係な人物ということになる。そもそも野々宮が彼女に興味を持ったのは、駒場殺しで追っていた長沢と京都で殺された佐保の共通の知人である洞院才華が失踪したからだ。何か重大な事情があったわけではない。二つの事件が繋がれば面白い……野々宮はそう言っていた。もしそうなら面白かった。それで終わってしまいそうだ。結局二つの事件に繋がりはなかったということだ。
しかし良い報告を聞くと、また事情が変わる。東京と京都で起きた事件は繋がっているようで繋がっていない。繋がっていないようで繋がっている……そんな宙ぶらりんの、足元がふわふわするような状況だ。ただの偶然なのだろうか……偶然にしては妙なのだ……。
「良い報告っていうのは、早瀬誠についてだ」
野々宮は、早瀬誠と尾高柊一郎が会食していたと話した。尾高柊一郎という名前に聞き覚えがなかったので訊き返すと、宮内庁の職員だと言った。早瀬は国会で首都移転を訴え続けている。それは同時に皇室の移転にも関係する話だ。早瀬が宮内庁の職員と会食し、それについての説明を行うことに問題はない。皇室とのパイプを作るという意味合いもあるだろう。
だが問題なのは、尾高の行動だ。彼はここ一ヶ月京都と東京を行ったり来たりしているらしい。その理由はわかっていない。何かが水面下で進められているのではないかと想像できるだけだ。たとえば、皇室の移転。
「まあ、すべて想像に過ぎない。ただもう一つ気になることがある。それは皇室関係者に末期癌を患っている方がおられるということだ。早瀬はガシーヌの認可が下りるように便宜を図っている節がある。副作用を改善して再び臨床試験の場を設けたいと思っているようだ」
「皇室関係者がガシーヌを使いたいということか?」
そのために尾高が窓口となり、かつてガシーヌの開発に裏で携わった早瀬に接触している。皇室関係者に末期癌患者がいるのであれば、その可能性は十分考えられた。そして魔法の薬にも劇薬にもなるガシーヌを使いたいということは、よほどの重鎮で、かなり切迫した状態であることが窺える。癌は治るが、副作用で亡くなる可能性も高いのだ。それでも使いたいということか。そしてガシーヌを使うために、再び黒い金が動いた可能性も考えられる。駒場敬一がその情報を得たとしたら……平和的デモ隊の小リーダーが目障りになるのは早瀬だけではないはずだ。
しかし野々宮は言葉を濁した。「それはわからない……」
早瀬とは丹羽裕人が繋がっている。丹羽は洞院才華の従兄だ。駒場敬一殺害に洞院才華が関わっていないと決めつけるのはまだ早いということだろうか。やはり彼女は、ガシーヌの開発に従事しているのではないか。だから大学に姿を見せない。もしそうなら、忽然と姿を消したにも関わらず死体が見つかっていないことも頷ける。ただ彼女は黒い金の動きを知っていて、国家権力に与する自分を嫌悪した。だから佐保に秘密を伝えていた……そう考えると、佐保が殺害されたということに納得できなくもない。
だが殺人はやり過ぎではないか。いくら切迫した状況にあるとはいえ、ただの大学生を二人も殺害するだろうか……。僕には現実味のない話に思えてならない。
「いつの間に、こんなに話が大きくなったんだろうな……」僕は呟いていた。
野々宮は嘲るように鼻で笑った。「いつの間も何もない。駒場敬一が殺された時から大きな話だった。殺人だぞ」
それはわかっている。だが政治家や皇室が絡む問題にまで発展するとは思っていなかった。心臓の鼓動が、耳にどくどくと響いてくる。柄にもなく、体が震えた。ビビっているのか、武者震いなのかはわからない。足もいつからか、痺れたように感覚が鈍っていた。せめてもの救いは、野々宮が考える大事件の証拠が何も見つかっていないことだった。今はただの空想で済ますことができる。
「東京と京都の事件、これは本当に繋がってるんだろうか。僕はちょっと、疑わしくなってきたよ」
「怖気づいたか? まあでも、こっちでもこんなこと考えてんのは俺くらいだよ。先輩方はここ一ヶ月、政治家よりも永田町を歩き回ってる。地道な捜査が続いてる。でも駒場殺しの犯人は未だ逮捕できていない。手掛かりもない。毒殺事件なんてそう起こるもんじゃないぞ。俺はあくまで、そっちの事件と関係してるように思うんだが」
もし野々宮の直感が正しいとすれば、僕は何をすればいいのだろう。本当に政治家や皇室絡みの事件なら、大学でいくら調査を行っても真相にはたどり着けないじゃないか。
通話を終了し、僕は一つ長い息を吐き出し、頬を叩いた。学生にも、佐保と風見に対して動機を持っていた者がいるのだ。古都大生なら、洞院才華に操られている可能性も残されている。それが最後に駒場敬一殺しに繋がれば万々歳。それでいいだろう。
食堂内に戻ると、「長かったな」と千代に言われた。確かに、もう昼休みも殆ど時間が残っていない。二人は学食を出て、次の授業に向かった。千代とは別々の授業だ。もう少し戻るのが遅ければ、先に移動を始めていたと彼女は言った。僕はとりあえず謝っておいた。
千代と別れ、講義室で欠伸を九回すると、僕は附属病院を出て医学部棟に向かった。船槻敦に話が訊きたい。洞院才華や佐保が所属している研究室に向かい、中から出て来た学生に船槻敦の所在を確かめた。船槻敦は研究室にいた。彼に用があるのだと言うと、その学生は研究室に戻り、下っ腹の突き出た男を連れて来た。あまり酒癖が良くないという評判だから、相当飲み歩いているのかもしれない。それがこの下っ腹に蓄積されて、大学生らしからぬでっぷりとした肥満体型になってしまったのだろう。生活は体型に出る。僕は無意識に自分の腹を撫でたが、挑発したわけではなかった。ここでは何だから、と僕は休憩スペースに移動した。
腰を落ち着けた船槻敦は、警戒心の滲んだ目を眼鏡の奥から覗かせている。しっとりとした髪質はいかにも陰気そうで、何かあると根に持つタイプだろう。僕と同じくらい肌が白く、身長も変わらないが、船槻敦はずっと老けて見える。それは下膨れの腹のせいだった。もし千代がこの男に寝取られたら……僕は我慢ならない。いや、誰が相手でも許すことはできないが、相手が光源氏のような絶世の美男子ならば、諦めもつくという話だ。僕が風見なら、六条の御息所に泣きついていた。
船槻敦を観察していると、彼は少しずつ苛々してきて、膝を揺するようになった。そこには不安も表れているように見えた。名乗った後、僕は佐保と風見の事件を調べていると伝えた。船槻敦は意外そうにすることもなく、やっぱりなと落ち着いた声で言った。何がやっぱりなのかと訊くと、警察が来たのだと船槻敦は言った。今自分の元を訪ねて来るのは事件を調べている者くらいだ、と。
警察に訊かれたことを僕は訊ねた。船槻敦は不貞腐れながらも、佐保との関係性、風見とのトラブル、そしてアリバイを訊かれたと話した。警察はすでに船槻敦と佐保の間にあった酒絡みのトラブルを把握しているようで、船槻敦はそれを認めたという。僕が再度確認しても、船槻敦はそれを認めた。佐保が好きだったかを問うと、それも認めた。飲み会の後に佐保を持ち帰ったのは、間違いなく下心だったと。どうやら確信犯だったらしい。それについて風見とトラブルになっていたことも認めた。目撃者や証言がはっきりしていることもあり、言い逃れはできないと考えたそうだ。ただし、佐保と風見の殺害は否定した。
アリバイについては、証言者がいないと船槻敦は言った。佐保の事件があった夜は居酒屋で一人飲んでいたそうだが、それは事件が起きたと考えられている時刻を過ぎてからのことだった。風見が殺された夜も、家で一人晩酌していたという。その日は映画を何本か観ながら朝まで飲み明かしていたらしい。翌日が土曜日だったこともあり、朝方酔い潰れたそうだ。
犯行現場に意味があるという前提で容疑者を見た時、松尾大社から連想できる酒絡みのトラブルを抱えていたのは今のところ船槻敦だけだ。それについて問うと、船槻敦は苦笑した。
「松尾大社には一度ゼミの仲間に連れられたことがある。酒癖の悪さを直してもらえとね。でもあそこは酒癖を直すための神社じゃなくて酒の商売を繁盛させる神社だ。おかげで詣でた後、俺はさらに酒に飲まれることになった」
酒神にしてみれば、船槻敦はカモということだ。何を意気揚々と寝言を並べているのか。僕の質問に答えていない。松尾大社に何か心当たりはないかと訊いたが、船槻敦は首を捻った。話題を変えることにした。
洞院才華が大学に来ていないが、それについて何か知らないか。船槻敦は二重顎をバウンドさせるように揺らした。彼女についても警察から質問を受けたらしい。しかし警察が彼女について深掘りすることはなかったようだ。しかし僕は違う。君は彼女が憎らしかっただろう、と鋭く切り込んだ。船槻敦は目を眇めた。
「何が言いたい?」
「新都大に落ちたことがかなりのコンプレックスになっているようだけど……君は未だに古都大を見下してる節があるだろう。だからいつまでも劣等感を抱き続けている。新都大にもいないであろう天才が古都大にいることが君は気に入らないはずだ」
船槻敦は白衣の襟元を擦った。そこに埃などついていなかった。
「彼女は賢い。別にその存在を憎んだりはしない」
しかし今堀が、洞院才華から彼についての話を聞いている。船槻敦は、時々嫌味を言って来るのだと。船槻敦は初めて嘘を吐いた。彼はコンプレックスの塊だ。些細なことで短気を起こすかもしれない。しかしそれが洞院才華の失踪、佐保と風見の殺害に繋がるかはわからない。証拠がないからだ。彼が犯人だとしても、今は揺さぶりを掛ける程度でいい。僕は最後に、実家には帰省したかと訊ねた。船槻敦は僕と同じく東京出身だ。
「実家には帰ってない」と船槻敦は言った。しかし東京にはお盆休みに足を運んだという。実家に帰らなかった理由は、新都大に落第した自分に家族ががっかりしているから、だそうだ。古都大に進んでから、正月以外は実家に帰らないらしい。東京では数少ない親友と時間を過ごし、その後京都に戻って来た。九月二日には京都にいたことになる。
研究を中断させていたことを詫び、僕は辞去した。
医学部棟を出て、東大路に出ると、見知った顔を見つけた。高島美佐だった。僕が彼女を見つけた時、ちょうど彼女が踵を返すところだった。もしかしたら、洞院才華について今堀から何か聞かされているのではないか。今堀は口が堅いが、高島美佐のしつこさはそれを上回っているかもしれない。焚きつければ、彼女ならぺらぺらとしゃべってくれるかもしれない。
「何してたの?」と僕は話し掛けた。
高島美佐は肩に提げたシャネルのバッグをぎゅっと掴み、身構えた。「何やあんたか」と上級生にも物怖じせず言った。「ナンパかおもた」
ちょっと話があるんだけど、と言うと、今堀は病院に行ったと高島美佐は答えた。今、彼が附属病院に向かうのを見送っていたところだったらしい。そういえば、今堀に初めて話し掛けた時、彼は東大路を古都大学に向かって北上していた。あの時も附属病院に行っていたのかもしれない。どこか悪いのかと訊いたが、高島美佐は首を傾げた。聞かされていないようだ。
今日は君に話がある、と言うと高島美佐は怪訝そうに眉を吊り上げ、自分の顔を指差した。厚化粧の目元はまるでミラーボールのように銀ギラだ。何か奢ってや、という交換条件がつき、僕は彼女から話を聞くことができた。
結局スタバの新作のトールサイズを奢らされ、僕達はまた大学に戻った。学内カフェのコーヒー一杯の値段を見て、僕は思わず頬をしかめた。スタバの半額以下だった。最近はアルバイトにも行っていないから、痛い出費だった。彼女から有益な情報を得られるかはまったくもってわからないというのに……。
そんなことを言っていても始まらない。僕は切り替えて、事件のことで今堀から何か聞かされてないかと問いかけた。高島美佐は首を傾げた。
「何でもいい。洞院さんのことでも、佐保のことでも」
「あの人、口数少ないしなあ。めちゃくちゃ口固いんやで。何か知ってても、秘密は絶対しゃべらへん」
「恋人にもか……」腕を組み、神妙な顔つきになって僕は言った。高島美佐を煽てれば、何かわかるかもしれない。二人が恋人関係にないことは承知の上だし、たぶん今堀が彼女に振り向くことはないだろう。そこまでわかっていながら、僕はそう呟いた。鎌を掛けたのだ。
案の定、高島美佐は頬を緩めた。照れたように笑うとやや目を泳がせ、交際を否定した。僕は意外だと言うように驚いてみせた。彼女は上機嫌になり、饒舌に話し出した。やはり高島美佐も事件のことは気になっているらしい。特に洞院才華には底知れぬ敵愾心を抱いていて、彼女が事件に関わっているのかという問題には関心があるらしく、今堀を問い質すこともあるそうだ。
だが事件のことになると、途端に距離を感じる、と高島美佐はしょんぼりとして言った。まるで口に南京錠でも掛けているのかと思うほど、答えてくれないらしい。
昨日、僕の聞き込みの後も、高島美佐は事件のことを今堀に訊いたらしい。僕に何を訊かれていたのかも気になったらしい。そうしたことには答えてくれるそうで、高島美佐は昨日の僕と今堀のやり取りについておおよそ把握していた。その中で、今堀がボソッと漏らした言葉があるらしい。それは「彼は松尾大社に捉われ過ぎている。まさに才華の幻術に掛かったかのよう」というものだった。
「捉われ過ぎ? それはどういう意味だろう?」
さあ、と高島美佐は首を竦め、呑気に飲み物を飲んでいた。
「君も彼と同じサークルだろう? 京都探求サークル。松尾大社で事件が起きてるんだ。それに二人とも含みのある言葉を残して……。松尾大社に何か心当たりは?」
「ないわそんなん。事件の起きる場所に意味はないってことちゃうのん? 彼がそう言うのは。やから、捉われ過ぎやって言うんちゃう?」
「たとえば、佐保は松尾大社に行こうとしてたわけじゃない、とか?」
「そうなんちゃう? 知らんけど……」
日常生活を送っているだけなら、佐保も風見も松尾大社に足を運ぶことはなかったはずなのだ。もし事件が二人の自宅周辺――生活範囲で起こっていたなら、殺害現場に意味を見出そうとはしなかっただろう。だが佐保は何かがあって松尾に足を運んでいる。その何かとは船槻敦との過ちを悔いてのことかもしれない、風見に対する懺悔だったかもしれない、はたまた、まったく違う事情があったのかもしれない。一つ言えることは、何もなければ松尾には行かないということだ。その点で言えば、風見が松尾に向かった理由ははっきりしている。佐保の遺言を預かっていたのだ。だから松尾に行き、そして殺害された。何かがあるのは間違いない。犯人が松尾に潜んでいることも間違いない。
捉われ過ぎ……その言葉の意味が僕にはわからなかった。佐保は松尾大社の駐車場で殺された。風見は松尾から嵐山に向かう路地で殺された……そういうことなのか? 何かがあるのは嵐山なのか? 松尾大社ではなく嵐山……確かに、風見は殺される直前嵐山に向かっていたのかもしれない。そう佐保に聞かされていた可能性もある。だがそれならば、なぜ一度松尾大社に寄る必要があるのか。嵐山に行くつもりなら、初めから嵐山に向かえばいいではないか。わざわざ四条通まで下らなくても、丸太町通を行けば渡月橋の北に出る。三条通を使って嵐山まで行けば、着くのと同時に渡月橋だ。わざわざ松尾大社を経由する理由がない。
もう一つ、聞き逃せない言葉があった。それは「まさに才華の幻術に掛かったかのよう」という言葉だ。それはただの比喩なのか、いや、そうは思えなかった。まるで、ではなく、まさに、と今堀は言った。その言葉は、洞院才華が事件に関与していることを示唆しているのではないか。彼の知る洞院才華の秘密が、深海魚が海面にその影を現すように揺らめいた瞬間ではなかったか。
「洞院さんについては? 君は彼女のことが気になって仕方ないんじゃないのか。一番のライバルだろう。彼女の安否を彼に訊いたりはしないのか」
「そら訊いたことくらいあるけど……はっきりとは答えてくれへんかった。たぶんあの女が今どうしてるんか、あの人も知らんのやと思う」
「でも探そうとはしない。それは洞院さんの安全を知っているからじゃないのか。つまり彼女の失踪は誘拐なんかじゃなくて、自発的なものだった。だから彼女の身に危険が迫っているわけじゃない。だから探そうとしない。違うかな?」
「そんなん知らん。ああでも、あんたが思ってるほど、あの人冷たくないで。あの女が失踪してから、何か考え込むことすごい増えたし……たぶん、あの女が今どこで何をしてんのか、安全なんか危険なんか、わかってへんと思う」
「じゃあなぜ動かない? 自ら動けない事情でもあるのか」
高島美佐は真っ赤な唇をへへんと曲げ、胸を張った。自分の胸に手をやる姿は、彼が好きなのはあたしだから、とでも言うようだった。
今堀が調査に乗り出さないのは、首を突っ込むと危険だとわかっているからに違いない。それこそ、命を落とすほど危険なこと。事実、佐保と風見は殺されている。洞院才華が失踪前に打ち明けた秘密を知るのは、おそらくだが、もはや今堀一人だ。しかしその秘密の金庫にはどんなに優秀な鍵職人でも開けられない錠が降りていて、どんな怪力自慢でも壊せない鋼鉄の作りになっている。それはもはや、誰も秘密を知らないのと同じだった。
僕は最後に、今堀が松尾に行く、あるいは最近行ったような話をしていなかったかと訊いた。高島美佐は首を傾げるだけだった。セイレーンのマークのついた容器をしかめっ面で振っている。トールサイズをもう飲み干したらしい。
高島美佐が立ち去ってから、僕は大きな溜息を吐いた。調査が円滑に進んでいると実感したことはなかった。それでも少しずつ前に進んではいたはずだ。だがとうとう、行き詰まってしまった……。
12へと続く……