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連載長編小説『破滅の橋』第五章 空の下は冷笑3

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「居候してるのは工藤から聞いてる」この数年間ですっかり老け込んだ瀬川はいった。頭髪もずいぶん薄くなり、残った髪の半分は色が抜けて白くなっていた。
 ラーメン屋のカウンターに二人は並んで座っている。峯本の出所を工藤から聞きつけ、わざわざ木更津から飛んできたのだ。外食は気が進まなかったが、この一回きりだと割り切って承諾した。何より、自分のことをずっと気に掛けてくれている瀬川の誘いを断る気にはなれなかった。
 瀬川にはずいぶん迷惑を掛けてしまった。恩師の頭髪がその苦労の象徴だった。峯本が事件を起こさなければ、もう少し髪が残っていたかもしれない。
「俺も、翔太からいろいろ先生のことを聞いてました」
「俺のこと? 何のことだか」といって瀬川は苦笑した。
 事件の後、瀬川は被害者遺族や峯本の両親に頭を下げ続けたらしい。峯本と面会した後には工藤と美智子に、峯本のことをどうか見放さないでやってほしい、と掛け合ってくれた。それから――。
 瀬川は事件に対して責任を感じ、教職を辞した。ただ一人の出来損ないの教え子のために、こんな疫病神のために、瀬川は人生を棒に振った。
「いつか機会を設けて謝らないといけないと思っていました」
「はっはっはっ。そんな堅苦しいことはやめろ。おまえが責任を感じなくていいんだよ。気持ちだけで十分だ。おまえは大丈夫。もうきちんと反省してる。今大事なのは、ちゃんと前を向くことだ」
 わかったな、と念を押されて峯本は頷いたが、それでも彼は頭を下げた。瀬川はひとつ息を吐き、峯本の頭を撫でた。
「本当に申し訳ありませんでした」
「いいんだ、峯本」
 そういうと、瀬川はまた峯本の頭を撫でた。どうしてここまで身を削り、自分に不利益ばかりをもたらす男に優しくしてくれるのかが峯本にはわからなかった。
「ほら、食うぞ。頭上げろ」
 頭を上げると、瀬川が大将から器を受け取っていた。ことっ、と瀬川の前に器が置かれると、ほんのり醤油の匂いが香った。味気ないお湯の香りが店内に漂っていたのだけれど、そこに色彩がついたせいか、急に腹が減った。しかし胃袋が緊張しているのは自分でもよくわかった。
 峯本の前に味噌ラーメンが置かれた。合掌して、ひと口一気にすすると、麺が踊るように口に入ってきた。
 しばらく黙々とラーメンを食べ続けていたところに「驚いただろう」と瀬川が呟いた。峯本が眉根を寄せると、声のトーンを落としていった。「出所してから、驚いただろう? いろいろ変わってて」
 少しだけ、険しい表情になっていた。気を遣わせている上に、察しも鈍い。重ね重ね、申し訳ない気持ちになった。
「正直、まだ何が何だか……」
 瀬川は自嘲気味に笑って答えた。「俺もまだ何がどうなってるのかがわからん」
 呆れたように首を垂れると、瀬川はらしからぬ弱い息を吐いた。
 ラーメンを食べ終わると、飲まずに残したスープがもったいないような気がした。しかししっかり満腹になるのは出所して以来初めてかもしれない。やはり工藤には心のどこかで遠慮しているのだな、と峯本は思った。その点外食だと食べ残すほうが失礼だ。
 なぜ瀬川が峯本を気に掛けてくれるのか、ふとその答えに近いものを思い出したかもしれない。学生時代、瀬川は「おまえたちのためならこの首が飛ぶのも怖くない」と力強くいっていた。しかし今峯本の隣にいる瀬川はむしろ穏やかで、優しさに溢れている。
 本当に辞めさせてしまった。後ろ暗い気持ちになり、衝動的に謝ろうとした。ところが彼はそれを堪えた。謝らなくていい、とまたいわれると思ったのだ。それでも謝るべきなのだ。これほどまで向かい合ってくれた人を裏切ったのだから。
 峯本が瀬川のほうを向くのと同時に、瀬川は口を開いた。
「就職活動はどうだ?」
 瀬川に制され、峯本は言葉に詰まった。峯本の僅かな気持ちの変化を敏感に悟ったのかもしれない。峯本は情けなくかぶりを振った。
「保護師の方に協力してもらってるんですけど、なかなか……」答えながら、俯いていく顔を止めることができなかった。
「そうか。でも峯本なら大丈夫だ。工藤もついてるし――」瀬川は峯本の肩をがしっと掴むと笑みを浮かべた。「俺の教え子だからな」
 瀬川にそういわれると、本当に大丈夫な気がしてくる。しかしこれから先のことはまだ何ひとつ希望が見えないでいるのが現状だ。
 峯本は、工藤には決して背負わせることのできない不安を瀬川に相談しようと思った。先生、と神妙な顔つきになっていうと、瀬川もただならぬ雰囲気を感じたのか、真剣な表情に変わった。
「街を歩いてると、まるで汚物に塗れた雑巾のような目で見られるんです。俺のことを知る人は誰もが冷たい視線を向けてくる。正直、こんな状況で俺の存在価値があるのかどうか。俺はもう何もかも終わったんじゃないかって思うんです――」瀬川は眉間に皺を寄せながら首を振っていたが、峯本は構わず続けた。「誰も俺を必要としない。むしろそこに存在してることで迷惑になってしまう。そんな俺が……生きる意味ってあるんですか」
 心の奥底に溜まった悲痛の叫びはまだまだ口を衝いて出そうだった。しかし峯本が口を閉ざしたのは瀬川に両肩をがっしり掴まれたからだ。無言のまま見据えられると、かつて生徒指導部長を任されていただけの威厳を感じた。
「世間の目に耐えるのはいわば峯本の宿命だ。だがな、峯本を見てそんなふうな態度を取る連中は皆無責任なやつらなんだ。俺は、そんなやつらに負けてほしくないし、峯本が負けるはずがないと思ってる。そういう強い人間を先生は育ててきた」
 瀬川は微かに笑みを浮かべた。
「きっといい出会いがあるさ。峯本の心をちゃんと見て、先入観などに惑わされず信頼してくれる人がきっといる。だからめげずに頑張るんだ。こつこつ徳を積んでいけば必ず報われる日が来る」
「……因果応報、ですか」窺うように峯本は訊いた。
「そうだ」
 もし世の中にそんなカラクリがあるのなら、今度は自分が殺される番だな、と思った。
「こんな俺でも、報われますか」
「もちろん。ただし、それは峯本次第だ」
 峯本次第――瀬川の言葉が胸に突き刺さった。彼は自分の無力さを嫌というほど知っている。峯本はそんな弱い人間が報われるなど、あり得ないのではないかと思った。
「世の中には、有償ボランティアっていうのがある。知ってたか?」
 はい、と峯本は答えた。以前、報酬が出るボランティア活動があるのだと保護師から聞いたことがある。だがその時はあまり前向きには考えられなかった。工藤という後ろ盾に甘えている部分もあって、企業就職にこだわっている。
「社会復帰のために、少しずつボランティアを始めてみたらどうだ? それを積み重ねれば、いつか大きな幸せが返ってくるんじゃないか。まさに因果応報だ。報われたいなら、何でもやってみるしかないだろう?」
 瀬川の提案を、峯本は受け入れた。しかし、胸の中では企業就職に対する思いが未だ残っていた。ボランティアで外に出るのは億劫だが、自分を変えるきっかけになるのではないかと峯本は思った。

4へと続く……

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