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連載長編小説『怪女と血の肖像』第二部 血の肖像 30

        30

 世間では今日を土曜日と呼ぶらしい。警察官になった時から曜日感覚はなくなっている。たとえ今日が土日でも祝日だとしても、市民の安全と暮らしのために警察官は職務を遂行しなくてはならない。特に、殺人犯が野放しになっている時は。
 そこかしこで欠伸を繰り返す捜査員が目立つ。土曜日だから、ではない。彼らもとっくに曜日感覚はなくなっているはずだ。樽本京介が殺害されてからすでに五日。本格的な捜査が始まってからは四日が経つ。まだ四日、そんな気もしてくるくらい今回の事件には振り回されているが、大きな進展もないまま時だけが過ぎていることを考えるとすでに四日というのが天羽の感覚だった。四日間血眼で捜査をしても、何一つ手掛かりを得られていないのなら捜査初日と変わらない。
 欠伸を繰り返している捜査員は、昼夜を問わず防犯カメラの映像を確認している者が多い。結局丹生脩太の姿も、八王子でレンタカーの映像を見つけた直後に見失い、行き先はわからずじまいだった。
 ドツボにはまっている……そんな感じさえしてくる。
 係長が会議室に入ると、充血した目を擦っていた捜査員も引き締まった表情に変わった。一番眠そうなのは係長だった。これまででわかっている情報を見つめ直していて、昨夜は眠れなかったのかもしれない。丹生脩太一人を見つけ出すのにどれだけ時間が掛かっているんだと上層部から圧を掛けられているのかもしれない。指名手配までして取り逃がしては、警察の面目は丸潰れだ。
「昨夜伊坂翔平と浅倉瑠璃のことで通報があったらしいな」会議を始めると、係長は普通の会話のように言った。その目は天羽を捉えていた。
 天羽は阿波野に合図を出し、説明させた。伊坂翔平の悲嘆の叫びが新宿に木霊しただけで、天羽がわざわざ報告するようなことではなかった。昨夜阿波野から通報が入ったことを知らされた時に閃いた仮説を話してもよかったのだが、その仮説が成立しないことはすでに確定している。
 阿波野が報告を終えると、「伊坂には樽本を殺す強い動機があったと考えてもいいだろう」と係長は言った。しかしそれは伊坂翔平を本ボシと捉えているのではなく、あくまで一つの可能性として伊坂翔平が樽本京介を殺したというのを残しておくための台詞だった。
 続いて永川雄吾について調べていた捜査員が立ち上がり、その成果を報告した。どうやら永川雄吾に恨みを持つ者は一定数いるようで、その代表格が妻の理穂だ。他にも高校時代の野球部の同僚の榎木充宏、大学時代の同級生である藤ヶ谷冬馬が挙げられるそうだ。
 捜査員の報告によると、榎木充宏は保険会社に就職した永川雄吾から新規の保険の契約を持ち掛けられ、昔のよしみで契約した。それを最近になって一部解約したいと申し出たところトラブルになっていたらしい。
 藤ヶ谷冬馬は金銭絡みだ。永川雄吾が競馬で負ける度に金を借りていたのが藤ヶ谷冬馬だったらしい。その関係は現在も続いており、永川雄吾に貸した金が返って来た試しはなく、もう貸せないと言い放ったところ、何と持ち金をひったくられたという。永川雄吾が失踪したことを知り、昨日は妻の元を訪ねて金を返すよう迫っていたようだ。
 恨まれても仕方ない。それが天羽の感想だった。
「藤ヶ谷になぜ金を貸し続けたのかと訊いたところ、単純に永川には力で勝てないという理由もあったそうですが、永川が競馬にのめり込むきっかけに同情していたので、初めは情けを掛けるつもりで金を貸していたそうなんです。それがずるずると今まで続いていて……」
「同情していた?」
「はい。どうやら当時交際していた恋人が自殺したとか……」
「自殺?」と天羽は呟いていた。これはまた、穏やかではない。大学生で自殺とは……。よほどの事情があったのか、岩沢美亜のようにヒステリックな女性だったのか、それともそれは本当に自殺なのか。
「永川のその恋人の名前は?」係長が訊いた。
「キリタニカスミさんです」
 桐谷香澄――聞き覚えはない。やはり事件とは無関係か。そう思った時、捜査員は聞き捨てならない一言を言い放った。
「この桐谷香澄ですが、自殺の少し前に堂島総合病院に入院していたようです」
「何か重病を抱えていたのか?」
「そこまではまだ……。ですが藤ヶ谷によると、自殺の直前の彼女は相当痩せ細っていたようなので、何か病気を抱えていた可能性は十分考えられます」
 丹生三奈子の例がある。桐谷香澄が重病を抱えていて、闘病の辛さのあまり自ら命を絶ったことは十分考えられる。
「駅のホームに飛び込んでの自殺だったようです」
 そう言うと、捜査員は腰を下ろした。駅のホームに飛び降りての自殺となると、誰かに突き落とされた可能性も考えられなくはないが、その点は当時の捜査員も防犯カメラの映像などで確認しているだろう。何より天羽が落胆したのは、駅のホームから飛び降りたのであれば丹生脩太は関わっていないだろうことだ。
 もし桐谷香澄の自殺にケチをつけるとしたら、岩沢美亜のように手首を切ったり首を掻き切っていてくれなければ……。桐谷香澄は間違いなく自殺だろう。
 ただ、彼女の容態がどれだけ深刻だったかくらいは調べてみる価値があるだろう。もしかすると、彼女の死と永川雄吾は関係しているかもしれないのだ。
 最後にバンド布武が解散を決定したことが伝えられ、捜査会議は散会となった。やはり布武のメンバーの温度差は相当なものだったようで、そこにヴォーカル不在という事情が重なれば解散となるのも当然のことだった。
 こうなるために樽本京介の死を望んでいた者がいる――そんなことがなければいいのだが。

31へと続く……

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