連載長編小説『美しき復讐の女神』17-1
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川越八幡宮で引いた大吉を引っ提げて、隼人は帰宅した。元旦は、なぜか毎年空気が澄んで見える。冬らしい張りつめた大気のせいか、あるいは無意識に脳が切り替えられているのか、そのメカニズムはまるでわからない。初詣に行くと、神社の鳥居、石畳、手水舎、賽銭箱など目に映るものが透き通るみたいに綺麗に見えるのだ。
今日も同じだった。和葉と二人で出掛け、いつもと同じ景色が見られたのは自分でも驚きだった。同時に、一歩前進できたような気がして嬉しかった。もし前進し始めたのが気のせいでないのであれば、もう少し和葉と一緒にいたいと思った。
しかしそれはできなかった。なぜなら和葉はこの後受験勉強に励むからだ。正月だからと気を抜けない、心身共に、切り替えならクリスマスにすることができた、と和葉は言うのだ。その勤勉さ、そしてひたむきさには頭が下がる。隼人は別れ際和葉にそれを口にすると、「相馬君から学んだことだよ」と答えた。「あたしが誘ったのに、これだけのことでごめんね」謝ることでもないのに和葉は言った。
受験の必勝祈願のために川越八幡宮を訪ねたわけだが、受験を終えた隼人も和葉と同じ気持ちになって柏手を打った。和葉が引いたお御籤は中吉だったが、隼人は自分の大吉と取り替えたいくらいだった。だが元旦特有の景色に映える和葉の姿は、心配など無用だと思わせてくれた。お御籤に書かれた運勢に視線を落とす和葉は、適度な緊張感と努力に裏打ちされた余裕に満ちていたのだった。
キッチンの側に置かれたストーブが部屋を重く温めていた。隼人は紺のダウンジャケットを脱ぎ、コートを買ったほうがいいだろうか、と考えた。和葉は今日も白のロングコート姿だったが、明らかに隣の隼人の恰好が不釣り合いだった。この先も和葉の横に立っていられる、というのは高慢な考えかもしれない。だがそれ以前に、四カ月後には大学生になるのだ。これまでとは違い、大人っぽいファッションを目指してもいいのかな、と隼人は考えていた。ダウンジャケットがハンガーに擦れる音が美代子と二人の静かな部屋に小さく響いた。
「お餅食べる?」
美代子は言った。今朝は太一の出勤前に三人で新年の挨拶を交わしたが、太一と隼人が殆ど同じ時間に家を出たこともあり、普段と変わらぬ朝食となった。ダイニングテーブルには三段のおせちも用意されていた。
「今はいい。屋台で団子とか食べて来たから」川越八幡宮の帰路を歩きながら、少し早めの昼食を和葉と摂っていたのだ。だが腹ごしらえには心許ない量だった。きっとすぐに腹は減るだろう。「食べたくなったら言う」
「そう」
それからしばらく、隼人は母と正月特番をテレビで見ていた。太一が元旦に仕事があるのはいつものことだから、家族で初詣に行くこともない。中学の頃までは隼人の初稽古の前に所属のクラブで初詣に行っていたこともあり、母もそれに同行していたが、隼人が高校生になってからというもの、美代子は一度も初詣に行っていないのではないだろうか。
美代子はお笑い番組を見て声を出して笑っているが、ただ暇な時間を潰しているだけのように隼人には見えた。隼人は退屈になって、二階の自室に向かおうと腰を上げた。
リビングを出て二階に続く階段に向かっている時、インターホンが鳴った。隼人はなぜか、嫌な予感がした。インターホンが鳴り終わった時、隼人はすでに階段に足を掛けていたが、何とも恐ろしい予感が胸を騒がせ、階段を上る足を止めた。
ちょうど美代子がリビングから姿を現した時、玄関の鍵が解錠された。太一が帰って来たのか、と思ったが、それならインターホンを鳴らす必要などなかった。時刻を確認したが、まだ午後二時前で、普段の帰宅時間まではずいぶんあった。
解錠された玄関ドアが、ゆっくりと開いた。漆のドアの先に立つ凛の赤い微笑に隼人は思わず顔をしかめた。ここにいてはだめだと本能的に察したにも拘わらず、隼人は動けないでいた。美代子は「お帰り」と一言声を掛けるとさっさとリビングに戻ってしまった。凛は地面を突き刺すように高く鋭いハイヒールを脱ぐ前に、赤いトレンチコートのベルトを外した。隼人を捉えてねめつける鋭い視線は、まるで獲物を見つけて舌なめずりしているように思われた。
隼人は耐え切れず、階上へ逃れようとした。
「待ちな」
凛に呼び止められ、隼人は身を震わせた。ゆっくり振り返ると、凛がトレンチコートを持った手を突き出していた。コートの下には、胸元を大胆に露出させた紫のワンピースを着ていた。
いったい何をしに帰って来たのか。なぜ突然帰って来るのか。隼人にはまったく理解できなかった。
「コート運んで。あんた、私が帰って来たのに挨拶もせず部屋に向かうわけ?」
「……たまたまだよ」隼人は階段を下り、凛の香水臭いトレンチコートをひったくった。「俺が上に行こうとした時に帰って来るから」
凛に背を向け、リビングに向かおうとすると背後から抱き締められた。凛の髪に首元をくすぐられ、また襲われる、と危機感を抱いた。隼人は凛の腕の中でもがいたが、「何もしないわよ」と耳元で凛が囁いたので静まった。だが凛の言葉が本当かどうか疑わしかった。隼人は凛の腕を、力を込めて掴んだ。
「冷たい弟ねえ。お姉ちゃんが帰省したっていうのに」
耳朶に触れる凛の吐息が不快だった。隼人は我慢できず、凛の腕を振り払った。距離を保って身構えると、凛は悠々と笑っていた。だが目元は鋭く、まるで掌の上に隼人を載せているみたいで、大きくそして恐ろしい瞳で見下ろしていた。
「姉弟じゃないって言ったのはそっちだろ」
「あら、覚えてたの? ふうん」
凛は勝ち誇ったようにつんと顎を上げ、隼人を頭から足元まで舐めるように見回した。その視線が、隼人は不快でたまらなかった。
凛の目を見てはいけない、そう思った隼人は大股でリビングに入り、トレンチコートをソファに投げ捨てるとすぐに引き返した。リビングを出たところで凛に腕を掴まれたが、か細い凛の腕など簡単に振り払えた。隼人は汚物を見るように凛を睨んだ。が、凛はそれに不敵な笑みを浮かべただけだった。
隼人は絶望した。太刀を振るったのは隼人なのに、気づけば隼人の刀身は折れ、凛の超然とした雰囲気が隼人の心臓を抉っていた。本当に心臓を貫かれたみたいに、隼人は胸が苦しくなった。リビングに入らず隼人をじっと見つめる凛の嘲笑が、隼人を飲み込んでいくようだった。凛から逃れようと階段を上った時、隼人は胸だけでなく肋骨にまで痛みを感じ、苦悶の表情で自室に入った。
安心したのも束の間、凭れかけていたドアがぐっと押し込まれた。隼人は慌てて押し返し、施錠した。鍵が閉められたのがわかると、今度はコンコン、とノックされた。
「開けなさいよ」
凛の声だった。隼人は恐怖に頭を抱えた。いったいどこまで俺を苦しめれば気が済むのか。何をしに帰って来たのか。
「何しに帰って来たんだよ」思わず口走っていた。
ノックが止まった。凛は馬鹿にするように鼻を鳴らすと、言った。
「正月に実家に帰省して何か悪い?」
「去年は帰ってこなかっただろ。連絡すらまったくなかったのに、どうして突然帰って来るんだよ」
「用があるからに決まってるでしょ」
隼人は何でもないふうに言った凛に恐怖を感じた。恐怖のあまり、声を出さずにはいられなかった。
「用って?」
「あんたじゃないわ。でもあいにく今は留守みたいだから、しばらく家に留まらせてもらう」
「父さんに用事?」
「正月まで仕事なんてね。昔から呼び出しなんて当然で、凶悪犯を相手に体を張っても割に合わない安月給」凛は喉を鳴らして笑った。「まったく頭が下がるわね! 警察官には!」凛は激しくドアを叩いた。「ねえ、部屋に入れなさいよ。鍵を開けな」
「嫌だ。凛には凛の部屋があるだろ」
「あんた、私の部屋に勝手に上がり込んだんだから今度はあんたの部屋に入れなさいよ」
「絶対に嫌だ」
断固拒否だ。凛に侵入を許せば、何をされるかわかったものではない。和葉の助けを得、せっかく前に歩き始めたばかりだというのに、凛に屈してはまた以前の自分に逆戻りだ。本当は、凛とのことを思い出すことすら憚られるというのに。
「どうして? 開けなさいよ。男のくせに、何を怯えてるの? 女が怖いのは知ってるから、さっさと開けなさいって」
「開けるもんか。俺を殺すつもりだろ」
「殺す? 何のために?」凛はドアを叩いて笑った。耳が痛くなるほどの高い声だ。「悪くないわね」
囁くほどの声で言った凛の言葉に、隼人はぞくりとした。凛の口調は、真剣そのものだった。隼人は、凛を部屋に入れたらまた誘惑されて、圧倒されて、もうどうしても立ち直れないほどに、人として、男としての心を殺されると思って言ったのだ。しかし凛は、そんなふうには受け取っていない。
本当に命を奪われる。この女ならやりかねない。
隼人は慄きのあまり、瞬きも忘れていた。
「女が怖い坊や――」叩かれたドアの音が、細かった。掌ではなく、指先で叩いたのかもしれない。「お姉さんが優しくしてあげるから、鍵開けてよ。お話ししよう。ちょっとくらいいいでしょ?」
隼人は素早くかぶりを振った。
「もう話し掛けないでくれ」
「女が怖いんでしょ? 私が相手して、恐怖心を一掃してやろうか?」
そんなことをすれば、余計に症状が悪化するだけだ。隼人は頭を抱えたまま押し黙った。
「返事しな。ふん、声も出ないのね。私が口の使い方教えてやるから、早く鍵開けな」
「嫌だ」自分でもようやく聞こえるほどの声量で隼人は答えた。
「それじゃ一生部屋から出られないな。出られたとしても、あんたは孤立して生きていくんだろうな。女が怖いんじゃ、どうしようもないわ」
隼人はぐっと目を閉じて、涙を堪えた。続いて凛から浴びせられた屈辱的な罵声の数々を、歯を食いしばって懸命に耐えた。瞼の裏に浮かぶのは和葉の笑顔ばかりだった。凛の挑発に何度も憤慨し、惨めな感情を爆発させそうになったが、ただ和葉の微笑だけが隼人を律することができた。目を閉じていると、和葉と一緒に闘っているような気がした。何とか気を逸らし、いつか凛が諦めるだろうと考えることができた。
隼人は耐え抜いた。凛がドアの前から立ち去る気配を感じたのだ。ほっと一息ついたその瞬間、またドアがノックされて、隼人は緊張した。緩んだ糸をきつく張りつめた時みたいに、隼人は緊張して体を揺らした。
「こんなに美しい女を抱けるのに、もったいない。あんたそれでも男って言えんのかい。男なら私を貪ってみろ。それができないあんたはもう男じゃないよ」
緊張と緊張の合間に生まれた油断につけ込まれ、隼人は頭に血が上った。決して開けてはいけないと頭では理解していたのに、気がつけばドアノブを握っていた。
だめだ――寸前で思い止まった、かに思われた。が、ドアノブを握る手の先に鮮やかな赤色が目に入った。足の爪が赤く塗られているのだった。困惑したまま視線を上げると、切れ長の目を大きく開き、真っ赤な唇を冷ややかに曲げている凛の姿があった。隼人は思わず息を呑んだ。咄嗟にドアノブを握る手に力を込めた。ドアは難なく閉じた。
二分後、恐怖に動悸が収まらないまま、ゆっくりとドアを開けた。凛は、いなかった。
17-2へと続く……
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