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連載長編小説『美しき復讐の女神』9-1

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 体育館シューズがバタバタと色んな場所で同じ音を立てる。その音は一つとして噛み合うことはないが、なぜか嫌ではない。ただ、手入れが行き届いているが故にキュッと、靴が床と擦れる音は耳に心地よい音とは言えなかった。
 ウォーミングアップを終えた隼人は、下野や他のクラスメイトと体育倉庫に向かった。今日から体育の授業は種目が代わって、バレーボールになったのだ。隼人はこれまで剣道以外に習ったスポーツは柔道だけで、球技は苦手だった。だからソフトボールやサッカーを授業で行う時は気分も乗らず、目立たない位置でたまにボールに触れるくらいだったが、バレーボールだけは別だ。なぜなら、隼人の卒業した中学校の球技大会の種目がバレーボールだったからだ。中学一年の頃、隼人は何の企みもなくただ純粋に、クラスで人気者になりたくて、必死にバレーボールの練習をした。小学校の時も、やはり中学高校も、スポーツの得意な男のほうが女子からの人気が高いものだ。特訓の甲斐あって、隼人はバレーボールだけは球技の中でも得意になった。中学の時は、男女を問わず、さらには担任教諭からも頼りにされて、隼人は思い描いた通りの状況に心躍った。
 今となっては、忘れ去りたい過去の一つだ。わざわざ女子生徒が集まって来るような状況に、自ら赴くとは。まだ現実を知らなかった愚かな自分だからこそできた行為なのだろう。
 しかしそれとは別にバレーボールの実力だけは失われることがなかった。隼人は毎年、バレーボールが体育の授業となるのを楽しみにしていた。三年になって、種目を選択することになった時、隼人は迷わずバレーボールを選択した。
 ボール、支柱、それからネットを準備するために、隼人は体育倉庫の奥まで入り、ボールの入った荷台とネットを取り出していく。
 その時、隼人はぼろぼろの今にも千切れそうなネットの網目を見て、それに思わず気を取られてしまった。二年前の、恐ろしい事件が頭の片隅から呼び起こされた。
 相馬家には、「目には目を」という教えが浸透している。目には目を、とはバビロニア法典の一節であるらしい。らしい、というのは隼人自身がバビロニア法典を読んだことがないためだ。だが「目には目を、歯には歯を」という言葉なら、耳にしたことがあった。有名な言葉だ。このバビロニア法典を相馬家に説いたのは、父の太一であった。
「目には目を、歯には歯を」とは「目を潰されたなら目を潰し返せ」「歯を折られたら歯を折り返せ」という意味だ。つまり、受けた仕打ちをそのままやり返すことは許されるが、それ以上、たとえば目を潰した上に鼻の骨を折ったり、必要以上にやり返して相手の命を奪ったりすることがあってはならない、というものだ。隼人も凛も、太一のその教えを固く守ってきた。ところが二年前、凛が高校三年の時に、太一の教えが初めて破られたのが、この体育倉庫だったのだ。
 そもそも、太一がバビロニア法典を娘と息子に説くきっかけとなったのも、重大な事件が発生したためだった。その事件は、凛と隼人がまだ小学生の頃に起きた。
 凛の美貌は幼い頃から評判で、近所はもちろん、隼人が物心ついた時にはすでに街中に凛を知らない者はいないほどだった。そんな美少女がいる小学校で、誰一人凛に恋をしないなんてあり得ないことだった。凛はいつも誰かを惹きつけ、いつも誰かを惚れさせた。そのため凛は小学校の間だけでも数え切れないほどの告白を受けた。ところが凛は、そのいずれの告白をも退けたのだった。
 その内の一つの愛憎劇が契機となり、まだ幼い娘と息子に太一がバビロニア法典を説かせることになったのだ。
 ある時、凛は同級生の男の子から告白をされた。凛はこれを断った。振られてしまった男の子は凛を逆恨みし、それ以降凛に対して執拗な嫌がらせを行うようになったそうだ。その内容はあまりに過激で、衝撃的なものが含まれているために、凛の受けた仕打ちを隼人が知ることは許されなかった。後になって耳にしたのは、廊下を歩いていると後ろから髪を掴まれ、ぐるりと遠心力で壁に叩きつけられたり、登校したら上靴に大量のチーズが詰められたりしていた、というものだった。凛はそうした嫌がらせに苦しんでいたが、しかし親にも担任教諭にも友人にも相談することはなかった。
 凛はある日、狂ったように笑い出したという。その日も、凛は嫌がらせを受けていた。だがもはや抵抗すらしなかった。夕方、男の子が友人と遊んでいる公園に、凛は中学生を引きつれて現れた。男の子は公園に現れた凛を冷やかしたそうだが、すぐに口もきけなくなってしまった。中学生に殴り倒されたのだ。動けなくなった男の子に、凛は近づいた。そして凛は、泣き喚く男の子の髪を鋏で乱暴に切り、カッターナイフで手首を何度も切ったという。
 男の子は一時意識不明の重体となったが、幸い命に別状はなかった。事件を聞きつけた小学校は即座に凛を学校に連行し、美代子を呼び出して指導した。凛が嫌がらせを受けていたことが判明したのもこの時である。
 その夜、事件の概要を聞いた太一は凛を窘めたが、非は男の子にもあるとした。太一は公正な裁判と娘を想う親の贔屓目から喧嘩両成敗のスタンスを取った。しかしその上で、今後このようなことを起こさないようにと凛に忠告した。それがバビロニア法典だった。
「やられっぱなしで終わるのはだめだ。本当に辛いことをされたのなら、やり返したっていい。それで先生に叱られるなら、お父さんとお母さんがいくらでも頭を下げてやるから。でもやり返すにしても、受けた以上のことをやっちゃいけない。目には目を、という言葉がある――」
 そして太一はバビロニア法典について語り、凛と同じく隼人もそれを聞かされた。話し終わった太一は、「今回は、誰かに相談するべきだったんだ。今度同じようなことが起こったら大人を頼りなさい」と言って事態を収束させた。男の子の親には太一が連日頭を下げに行ったらしいが、凛には寛大だったのだ。
 それ以降、隼人はもちろん、凛も父の教えを遵守してきた。ところが、この体育倉庫で、凛は「目には目を」の掟を破ったのだった。
 高校時代、凛には仲の良い女子生徒がいた。その女子生徒には同級生の恋人がいて、凛もその頃永岡と交際を始めたばかりだった。二人は元来の仲の良さと、お互いの恋愛について語り合うなどして、一層友情は深まっていった。凛はこの頃、まだその女子生徒にしか永岡との交際を打ち明けていなかった。
 しかしある時、仲の良かった女子生徒の恋人と凛が浮気をしていると噂が立った。むろん、これは根も葉もない虚偽のものであった。凛は女子生徒に弁明し、どうにか噂を終息させようとしたが、なかなか説得することができなかった。この時女子生徒の恋人も凛と一緒に弁明したが、これがかえって逆効果となった。その後永岡が仲介し、何とか凛の潔白は証明されたが、二人の間の蟠りは重く暗く、それを払拭することはできなかった。二人の間に入った亀裂は、二人の友情よりも深いものだったのだ。
 凛は、根も葉もない噂を流した張本人を赦さなかった。噂は学年中に流布していたため、その出どころが誰かは誰もが知っていた。女子バレーボール部の部員だった。凛は復讐を決意し、休み時間に体育倉庫に保管されているバレーボールをズタズタに切り裂き、ネットをすべて引き千切った。そして散乱した体育倉庫に、噂を流した女子部員を呼び出した。凛は噂のせいで友人と微妙な溝ができてしまったことを、女子部員は活動不可能な状況を、激しく罵り合った。だが凛の復讐は終わっていなかった。口論を適当に切り上げ、女子部員を拘束すると、制服、それから下着を鋏で裁っていった。拘束された全裸の女子部員を倉庫に残して、凛は体育倉庫を施錠した。監禁したのだ。
 凛はその後の授業に、平然と出ていたらしい。体育倉庫に一人の女子生徒が全裸で監禁されていることなど誰にも気づかれない、何食わぬ顔で日常を送っていたそうだ。
 女子部員が発見されたのは、その日の部活動が始まろうとする時だった。他のバレーボール部の部員が体育倉庫を開けた時、全裸の女子部員と切り裂かれた道具類を発見したのだった。当然バレーボール部は実践的な練習などできず、その日はランニングやトレーニングを主とした基礎トレーニングを行っていた。そして顧問は女子部員から事情を聞き、また他の部員や部活動で居残っている三年生から事実確認をし、夜になって相馬家を訪問した。
 隼人が帰宅した時、見慣れない靴が二足揃っていて、妙な気配を感じたのを今でも覚えている。リビングを覗くと、バレーボール部顧問と凛の担任教諭が揃って家庭訪問に来ており、この日は泊りがけの捜査を予定していた太一も帰宅していた。太一が帰宅していることで、事態をまるで呑み込めない隼人にも、凛が何か重大なことをしでかしたのだとわかった。
 二人の教諭が帰った後、隼人は両親に呼ばれ、凛と並んで座らされ、かつて説かれたバビロニア法典について説教を受けた。そこで凛が何をしたのかを知ったのだった。
 エンドラインに立ってバレーボールを地面にバウンドさせる。ふう、と隼人は息を吐いた。嫌なことを思い出してしまった。姉は復讐心の強い恐ろしい人物なのだ。なぜ突然実家を飛び出したのかは知らないが、それ以降連絡がないというのはさすがに不気味だ。
 東京で凛を訪ねなくてよかったな――もし訪ねていたら、何をされていたかわからない。隼人はそう思った。
 隼人は頭の上にボールをふわりと浮かせ、軽く叩き込んだ。隼人の放ったサーブは相手のレシーブミスを誘い、ワンタッチで味方コートに返って来た。それを隼人が絶妙にレシーブした。
 手が痺れた。隼人は手首をぱたぱたと振りながら、そうか、もうそろそろ十一月も後半か、と季節を感じていた。

9-2へと続く……

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