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連載長編小説『別嬪の幻術』4
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大学に戻ると、学食で軽い昼食を摂った。椅子に座って、ようやく足に乳酸が溜まっていることに気づいた。松尾まで自転車を飛ばし、同じ距離をまた戻って来たのだ。普段日課である風見との鴨川ラン以外に運動をしない僕にとって、一時間半以上自転車を漕ぐのは野球部の冬の練習と同じくらい負荷のかかることだった。
学食を出ると、僕は附属病院には戻らず、医学部棟へと向かった。佐保のことで、手当たり次第話を聞くためだ。佐保は僕の恋人ではないし、大親友というわけでもない。同じ大学の、少なくとも交流のあった学生が殺害され、興味がないわけでもないが、僕が事件を調べなくてはならないという義理はない。それでも僕はこの事件を調べようと思った。佐保の恋人である風見が茫然自失として、とても事件を調べられそうにないからではない。僕を駆り立てるのはただ一つ、この事件に洞院才華が絡んでいるのではないかという予感だけだ。もし洞院才華が事件に関わっているのだとすれば、あるいは彼女が犯人なら、僕は思いもよらぬ形で彼女への挑戦権を得たことになる。事件解決はすなわち洞院才華への勝利――秀才が天才に勝つということだ。全貌が明らかになった時、古都大生は思い知るだろう。本当の天才は洞院才華でなく、築山栄一だったのだと。
しかし聞き込みは捗らなかった。
佐保と仲の悪かった学生は誰か、佐保とトラブルを抱えていた学生はいなかったか、佐保に恨みを持つ学生はいなかったか、佐保と最後に会ったのはいつか、その時の佐保の様子はどうだったか、最近変わったことはなかったか……いずれも、大した情報は得られなかった。医学部生は実習も多く、佐保と接点のある者は少なくない。だが佐保と深い関わりを持っている者はそれほど多くなかった。その理由は二つある。一つは風見という恋人がいたこと。もう一つは洞院才華と親しかったことだ。
佐保は昼休みを風見と過ごすことが殆どで、授業が終わればやはり風見とどこかへ出掛けて行く。授業の合間に他の学生と接することはあるものの、その時間、佐保は殆ど洞院才華と一緒だったようで、他の学生とも会話はするが、それ以上の繋がりは持たなかったらしい。確かに佐保は、群れるタイプではない。
一方で、洞院才華はその美貌と分け隔てない性格で、皆から好かれていた。しかしミス古都大に輝き、一年生――関西では一回生――でその年の最優秀論文を発表する天才だ。特に女子学生は、彼女と接することに敷居の高さを感じている者もいた。
医学部棟での聞き込みでわかったことは、最後に佐保と会っていたのは風見だということ、洞院才華はやはり学校に来ていないということだけだ。
今年の前期まで皆勤賞だった洞院才華が突如大学に来なくなり、それを気にしていた佐保が殺された……関係がないとは思えない。やはり洞院才華は何かしら事件に関与しているはずだ。彼女なら、人を操り殺害することもできるだろう……。
洞院才華は大学一年の前期、人体構造機能学だったか組織学だったか、どちらかの授業の期末レポートで「レム睡眠下の脳は活動状態にあり、聴覚、嗅覚、触角は覚醒状態にあることから、そこから得たきっかけは直接夢に作用し、反映させられるのではないか」という仮説を立て、それにより一部の行動を予知または操作することが可能になるのではないかというものを執筆した。
これに興味を示した教授が彼女にさらに深掘りして論文を書くよう言った。文字数の制限で、彼女のレポートは仮説を立てるだけで終わっていたのだ。出来によっては、古都大学が発行している機関誌に掲載するということになり、洞院才華は論文執筆を引き受けた。
仮説は、期末レポートで立てたものと同じだった。そこに洞院才華による実験検証データ、それからアメリカで行われている夢催眠のデータの引用などが加えられた。完成した論文の内容を要約すると次のようになる。
レム睡眠下の脳は活動状態にあり、聴覚、嗅覚、触角は覚醒状態であることから、そこで受け取った音楽もしくは声音、匂い、感触といったサブリミナルメッセージは直接夢に作用し、反映させられるのではないか。AIスピーカーなど、現代の技術を使えば聴覚を通して夢の中に反映されたものを脳が無意識のうちに記憶し、愛着に似た感覚を抱き、それにより一部の行動を予知または操作することが可能になるのではないか。
すでにアメリカでは夢の中に広告を掲載するなど、夢を操作することによるマインドコントロールの検証が行われており、実際、夢で見た広告になぜかわからないが愛着を持ち、翌日その商品を購入した人間がいるなど、その効果は発揮されている。これは意識と潜在意識の境界領域より下に刺激を与えることで現れる閾下効果――サブリミナル効果を駆使したものである。
こうした夢催眠を鬱病患者などの催眠療法として適用することで、一定の回復効果を見込めるのではないか。
こうした仮説の元、洞院才華は学部学科を問わず夢催眠の実験を行った。その実験結果も論文には掲載されており、精神に不安のある五百人の学生のうち実に八十七パーセントもの学生がストレスの軽減を実感したという。この論文が機関誌に掲載されると、瞬く間に広く賞賛された。そして洞院才華は、入学してわずか一年で、名だたる教授を差し置いてその年の最優秀論文という栄誉を手に入れた。
この論文で紹介されている手法を使い、八十七パーセントもの確率でマインドコントロールができるのなら、催眠の中で佐保を殺すよう洗脳し、殺人を実行させることも可能なはずだ。
洞院才華は卒業後医者になるつもりはなく、実家の旅館を継ぐそうだが、こうした精神疾患を持つ患者への関心は高く、今もデータを収集し続けていると聞いたことがある。たとえば佐保が殺害されたのが実験の一つだとすれば、洞院才華が表に顔を出さなくなった理由として説明がつくかもしれない。黒は影に入ろうとする。
目下最大の課題は洞院才華に接触することかもしれない。会いに行くか……。僕はぎりっと奥歯同士を擦りつけた。
しかし洞院才華の実家に行く前に、一人会っておきたい人物がいた。彼女と交際していると噂のある今堀だ。彼なら洞院才華がどうしているのか、なぜ大学に来ないのか、何か知っているかもしれない。彼女が黒なら、間違いなく口止めされているだろうけど……。面識はないが、長身で長髪という目立つ風貌はよく知っている。
ところが今堀の姿は、どこを探しても見当たらなかった。サボりか、授業中か。少し待ってみたが、教室から雪崩のように出て来る学生の中に今堀の姿は認められなかった。仕方がないので、僕は一つ講義を受け、それから洞院家の旅館を訪ねることにした。あまり事件にのめり込んでは、僕の単位が危うい。欠席日数で落第などあってはならない。普通に出席していれば、落第などするわけがないのだから。
洞院家の旅館は古都大学から程近い場所にある。駐輪場から東大路を今出川通まで上がり、そのまま西進する。川端通まで来ると、加茂大橋を渡らず左折。加茂大橋から少し下ったところでその旅館は繁盛している。夕日が西山に食われ始めたこともあり、騒音はないが、旅館のすぐ傍では工事が行われていた、旅館の改装か、拡張工事なのか。どちらにせよ、儲かっているからできることだ。
旅館の入り口に自転車を停め、玄関に入った。広々とした岩肌のロビー、桐の香り漂う靴箱、梁の上には天龍寺の八方睨み龍を思わせる木彫り。
懐かしいな、と不覚にも思ってしまった。僕は一度、この旅館を利用したことがある。高校三年の夏に古都大学のオープンキャンパスにやって来た時だ。一泊二日で、ここの旅館に宿泊した。洞院家では度々仕出しを取っており、せっかくなので僕も料理人が腕を振るう京料理をいただこうと思い、親に奮発してもらった。
オープンキャンパスの後、チェックインを済ませると、僕は大浴場に行った。旅館自慢の露天風呂がついており、そこから鴨川の流れを一望できる。風流にも風鈴がいくつか取り付けられていて、風が吹くと京都の夏に包まれているような心地がした。その後は岩盤浴で旅の疲れを取り、客室に戻った。僕の部屋からも、鴨川を眺めることができた。障子を開け、椅子に座って炭酸ジュースを飲みながら、夕食を待った。
数十分が経ち、夕食の時間となった。襖の向こうから「ごめんおくれやす」と艶のある女性の声がして、僕は立ち上がった。襖が開くと、僕と同い歳くらいの若女将が現れて、驚いた。籐椅子に座る時、僕は彼女から目が離せず、卵型の顔を彩る薔薇色の頬、茶色の瞳、形のいい唇と、やや下膨れの頬に見入ってしまい、うっかり肘置きを空ぶって、バランスを崩した。「大丈夫おすか」と若女将は言った。洞院才華だった。
洞院才華は丁寧にテーブルに京料理を並べ、それらの説明をした後、「仕出しを取りましたんで、存分にお楽しみくださいませ」と言い、見事なお辞儀をして見せると、立ち上がろうとした。
僕は思わず「何歳ですか」と訊いていた。女性に対して不躾な質問だが、気がつくとそう訊いていた。
洞院才華は悠々と座り直し、裾を払うとにっこりと微笑んだ。「十八どす。お酒は堪忍」
「十八? 僕と同い年だ」
「そうどすか……。築山はん大人びてはるさかい、てっきり大学生やおもてました。ほな築山はんもお酒は飲めませんのや」
「高校生、だよね?」
洞院才華はぽかんとしたように、小さく頷いた。当たり前どす、という顔だった。
「決まってまっしゃろ。十八言えば高校三年生や。築山はんと同じどす。昼間は学校行って、帰ったらこうして家のこと手伝うてます」
「えらいね」この頃、僕はまだアルバイトすらしたことがなかった。
「そないたいそうなこととちゃいますさかい。小ちゃい時からの習慣どす。これがうちの当たり前なんどすえ。うちからしたら、一人で京都まで来てはる築山はんのほうがよっぽどえろう見えます。うちは一人で京都出たことないさかい……」
「滅多なことがないと関西まで一人では来ないけどね」
「滅多なことがおありなんや。ええことどす」
「古都大のオープンキャンパスに行ってたんです」訊かれてもいないのに、僕はなぜかそんなことを口にしていた。普段は、あまり自ら話をするタイプではないのだが。
「ああ、古都大。そこやしね。それでうちを……おおきにありがとう。てっきり観光やおもてて……」
「そうですよね。京都に来て観光しないなんておかしいですよね」
「予定はあらはらへんのん」
「まあ……明日の昼には東京に帰ります。でもこの旅館で、京都を楽しませてもらった気はします。露天風呂に、それからこの部屋からの景色」あなたのような美人とも話せて、とは言えなかった。「最高です」
「おおきに……嬉しいわ。でももったいない。京都はええとこいっぱいあんのに」
「どこかお勧めがあれば、教えてください」
「いややわ……。お勧め言うてもみんなお勧めやし……八坂さんも清水さんも、ええどっしゃろ? でもやっぱり、うちは鴨川が好きどす」
「目の前ですもんね」
「春は桜、秋は紅葉、そらどこも綺麗やけど、鴨川はやっぱり京都の顔でっしゃろ? 特に夏の鴨川は、堤防歩いてると気持ちええんどす。もう夏の京都はぜひ鴨川を歩いておくれやす」
「そんなに?」
「はい。子供が汗を垂らして飛び石渡って、おじさんは麦藁帽子被って釣りしたはります。川べりでは学生がサークル活動して、真ん中で鴨川がせせらいでます。暑うても、鴨のせせらぎを聴くと胸がすうっと涼しくなるんどす。京都の人にとって、夏の鴨川は風鈴みたいなもんやさかい、ぜひ味わってみとください」
「そこまで言われると、歩きたくなるなあ」
「ぜひ」洞院才華は腰を上げた。「冷めんうちに召し上がっておくれやす。長々と失礼しました。お暇させてもらいます」
そう言うと、柔らかい笑みを浮かべ、若女将は部屋を後にした。職人が腕を振るった京料理を堪能し、彼女が膳を下げに来るのを楽しみに待った。期待通り、洞院才華がやって来て、膳を下げた。その際料理に満足したことを告げると、「料理人に伝えときます。おおきに」と言い、部屋の隅のごみを拾って出て行った。
翌日、僕は鴨川を歩いた。だが洞院才華が言ったような感覚にはならなかった。暑い。とにかく暑い。加茂大橋から荒神橋まで歩くだけで汗だくになった。丸太町橋までは辛抱して歩いたものの、真夏の京都の酷暑に耐え切れず、丸太町から地下鉄に乗り、京都駅に向かった。
馬鹿にされた……。何が京都人にとっての風鈴だ。まるで砂漠じゃないか。危うく熱中症と脱水症状で死んでしまうところだった。やはり移動は乗り物が一番だ。二度とあの旅館になど行かない。二度とあの若女将とは会わない。そう思った。
しかし洞院才華と、その半年後に再会することになった。それも屈辱的な場所で。古都大学の入試、主席は僕だと信じて疑わなかった。自己採点でも過去最高の点数を記録していた。新都大にも余裕で合格できる点数だった。だが入学式で主席入学者として表彰されたのは洞院才華だった。彼女の名前を夏には聞かなかった。だが洞院という苗字は知っていた。そしてあの美貌を、僕は忘れることがなかった。一目見て、彼女だと確信した。それから僕は、彼女を憎んでいる。いつか必ず、あっと言わせてやる。
玄関に来客があることに気づいたのは洞院才華の父親、この旅館の亭主でもある洞院恭介だった。
「お待たせして、えろうすんません」と洞院恭介は頭を下げた。
僕は洞院才華が大学に来ていないことを言った。洞院恭介は眉を曲げ、相槌を打ちながら、後頭部をぼりぼり掻いた。
「そうなんどす。実はうちにもおりませんのやわ。心配で、捜索願も出させてもろたんやけど……」
心当たりを訊いたが、洞院恭介は首を捻った。まるで上司に怒られる部下みたいに、ずっと腕を体の前で組み合わせ、背を丸めて訥々と答える。
最後に僕は、才華さんは松尾のほうに遊びに行くことはありますかと訊いたが、洞院恭介はさあ、と言った。
「元々あんまり外に出る娘とちゃいますし、友達と遊びに行ったことくらいはあるやろうけど、そないきちきちに娘の行動確認してまへんさかい」
洞院才華の母親にも話を訊いたが、収穫はなかった。
5へと続く……