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連載長編小説『破滅の橋』第一章 亡霊5-1
5
そろそろ立ち去るんだと警告するかのように風が頬を撫でて行った。
その時、墓石の正面に寝かせて置いた一輪の薔薇がころりと半回転した。茎の部分は墓石からはみ出していてまだ微かに揺れている。
周囲の墓と見比べてみても立派な墓だとはいえないが、やはり峯本には特別な思い入れのあるものだ。それだけで、いくらでも美しく見える。
まだ午後五時にもなっていないというのに陽は沈み始めている。空は涼子の墓前に置かれた薔薇の色をそのまま映したかのように真っ赤で、それに乾いた空気と冷ややかな風が溶け込み、熱情に駆られる峯本の気持ちを落ち着かせようとしているようだった。
峯本は、自分で置いた薔薇を持ち上げると、その向こう側に彫られた『坂田家之墓』という文字を見つめていた。ここへ来ると、いつも同じ感情が湧き上がってくる。自分の情けなさ、世の不条理への憎しみ、怒り、愚かさ、穢れ。
それから涼子を失ったことへの哀しみ。
どれも萎むことのない、しかし膨れ上げても行き場のない感情だ。そのことを理解しているからこそ辛かった。でも彼女の墓参りは決して苦行などではない。誰にいわれるでもなく、彼はここに足を運んでいる。
ただし――。
それが義務である、峯本はそう思い続けている。涼子を、彼女を、恋人を、誰より愛していた人を守ることができなかった自分を赦せないでいる。
長い時間が流れていった。それでも、峯本はあの日のことを昨日のこと以上に思い出すことができる。あれは初夏の良く晴れた、瞼の重い月曜日のことだった。
夏の到来を実感させるように始まった蝉の鳴き声に鬱陶しさを覚えながら教室で談笑していた。話し相手は工藤である。
「昨日涼子が京都の大学のオープンキャンパスに行ったんだよ」
「京都かあ」と工藤は羨望の眼差しを浮かべた。「中学の修学旅行で行って以来行ってないな。涼子は頭良いから、京大か?」
「いやいや、さすがにそれは厳しいだろ」峯本は陽気な笑い声を上げた。それと同時に、恋人のことを誇らしく思った。
「じゃあどこの大学のオープンキャンパスなんだ?」
「それは俺も知らない」
何だよー、と工藤は大きく首を垂れた。その様子を見ながら、俺もその話を聞くのが楽しみなんだよ、と峯本は微笑んでいた。
「関西に染まって帰ってくるんじゃないか?」
「一日だけじゃ染まりはしないよ」
「なんでやねん、とかいうようになってたりして」そう言ってからもう一度、今度は切れ味鋭く「なんでやねん」と言い、工藤は大笑いした。
「涼子はそんなに下品じゃないよ」といいつつ、そんなふうになっていたら、それはそれで面白いと思った。
が、峯本の高揚感だけを残したまま、涼子はやって来なかった。遥々京都まで行ったせいで気疲れしたのだろう。これまで皆勤している彼女が欠席、遅刻する理由など他に考えられなかった。
しかし奇声のような声を上げて教室に入ってきた瀬川を見て、得体の知れない不安が大きな塊となって胃に圧し掛かってきた。突然の息苦しさ、腸は捻じれていくよう、頬は熱に浮かされているのかと思うほど紅潮している。
拳を握りしめ、教卓に突っ伏してしまいそうな瀬川に一人の女子生徒が尋ねた。「先生、どうしたんですか」
その声は怯えて身構えていた。肩を激しく上下させている瀬川は自分に何かをいい聞かせているらしく、しばらくの間無言で頷き続けていた。ようやく口を開いたのはまもなくホームルームが終わろうかという時だった。
「ホームルームを始める前に、おまえたちに伝えておかなければならないことがある」唇を噛みしめたまま、土砂崩れの起きている顔を上げた。「坂田が、坂田が亡くなりました」
それを聞いた瞬間、峯本の視界が揺らいだ。肩の力が抜け、締め付けられていた内臓は解放された。かと思うと全身から血の気が引き、足先の感覚は失われた。誰かに操られているような感覚が首元にあった。彼は天井を見上げ、ゆらゆらと視線を宙に這わせてから、まっさらな机の上でそれは止まった。何も受け入れられなかった。思考は完全に停止し、机の木目もどんどん白んでくる。口はだらしなく開いたままだし、流れ出る鼻水にも気がつかなかった。
そんな中、聴覚だけは活きていた。八方からすすり泣く声と蝉の鳴き声が聞こえていた。ぽかんと茫然とし続けていると、瀬川が語り始めた。
みんな、と担任教諭は声を張り上げた。「坂田のことは忘れろっ。でも坂田のことは忘れるな」
刹那、教室から音が消えた。
しかし泣き声がフェードインしてきたかのように少しずつ大きな音となって教室に反響を始めた。峯本は拳を固め、火花が出そうなほど奥歯を噛みしめ、机を殴った。
虚無感と絶望が彼の胸に押し迫るのと同時に、教室のドアが開いた。現れたのは背広を着た二人の男だった。瀬川に目礼して教室に入ってきた男たちは、峯本の前で立ち止り「峯本浩平君やね」といった。頭が混乱している彼に向かって、二人はバッヂ付きの手帳を提示した。「坂田涼子さんのことについて少し話を聞きたいんやけど――」
「君と坂田さんは交際関係にあったらしいね」もう一人の男がいった。「坂田さんについて、少し話を聞かせてくれへんかな」
状況を理解できないまま教室を連れ出された峯本は、瀬川と共に応接室に入った。そこで十分ほど二人と話をしたけれど、何を訊かれてどう答えたのかはよく覚えていない。ただ、やって来た二人は京都府警の刑事で、涼子が男に殺害されたという事実だけが彼の思考に刺激を与えた。
教室に戻り、項垂れながら徐々に頭の中で整理がついていった。刑事の話によると、犯人の男は一人で行動していた涼子に声を掛け、関係を迫ったところ拒絶され、警察に通報されそうになったため誤って殺してしまったということらしい。
なぜ? なぜ彼女が標的になった。どうして殺されなければならなかった。あまりにも理不尽だ。
目が滾るのがわかった。気がつくと拳を固めている。表情筋がはち切れそうなほど歯を噛みしめ、授業の雰囲気を突き破る怒号を発した。
「どうしたの?」と女性教員が尋ねてきた。しかし見返した峯本の目に怯えたのか、女性教員は何も追及してこなかった。
「すみません」と息を切らしながら理性を保ち、峯本は頭を振った。
許さない――涼子を殺した男を絶対に許さない。殺してやる。涼子の仇を必ず取ってやる。
「落ち着け」
工藤に窘められ我に返った。
「深呼吸。ほら」
親友の言葉に肘がぴくぴく痙攣したが、峯本を見据える工藤の表情に諭された。殴りたければ殴れ、俺がいくらでも相手をしてやる、工藤の目はそう語りかけていた。
頷いた峯本は大きく息を吸い込み、吐いた。それを何度か繰り返し、ずいぶん落ち着きを取り戻した。しかし――。
大きな憎しみと、怒りだけが腹の底に沈殿した。
それ以降、しばらく自宅で療養しろ、という瀬川の指示を受け、峯本は自宅に籠った。どうやら工藤が監視役を任されているらしく、彼は毎日、放課後になると峯本の元を訪問した。涼子を殺害した男は峯本たちと同じ木更津の人間であるということはすでに周知のこととなっていた。そのため女性教員から峯本の発狂ぶりを聞いた瀬川は、峯本が短気を起こすのではないかと懸念したのだろう。
蟠りが晴れないまま、数日が過ぎた。工藤と共に葬儀場に向かい、通夜が行われるよりも早く会場に到着した。涼子の母に悔やみと謝罪を述べた。
「浩平君は何も悪くない。だから自分を責めないで。あなたには何の罪もない。むしろ悪いのは一人で行かせたあたしだから」
峯本は、ただ黙っているしかなかった。そんな彼に、「涼子の顔を見てやって」と涼子の母はいった。
峯本は工藤と広間に入った。中央には大きな額に入った涼子の笑顔が咲いている。峯本と出掛けた時に二人で撮影したものだった。本来、彼女の笑顔の横には彼が写っている。その写真を遺影として使ってくれたことを思うと、嬉しくもあり、しかし後悔が大きくなっていくような気もした。
「遺影を選ぶのは本当に辛かったの」涼子の母がいった。「娘の写真はたくさんあったんだけど、どの写真が一番いい笑顔をしてるだろうって見てたら……浩平君と写ってるものだった」
涼子の母は涙ぐみ、目元にハンカチを押し当てた。峯本の中でも、すっと込み上げてくるものがあった。
白い棺を開けると、無数の花に囲まれた涼子が横たわっていた。涼子は、男に首を絞められて殺されたらしいが、注視しなければ首元の痕は気にならなかった。工藤が泣いているのがわかった。洟をすする音が聞こえる。
「浩平君、ありがとうね」涼子の母は深々と頭を下げた。
「お母さん、頭を上げてください。僕は何もしてません。むしろもっとできたことがあるはずです」
涼子の母は首を横に振った。
「短い人生だったけど、きっと浩平君のおかげで楽しい人生を過ごせたと思うわ」涼子の母は彼女の頬を撫でた。「きれいでしょう? まだこんなに肌艶がいいのにねえ」
はあ、と涼子の母が嘆息を漏らすのを峯本は見逃さなかった。強がってはいるのだろうけど、本当は声を上げて泣きたいはずだ。でも、こうして笑っていられるというのは強い人である証だ。対して自分はどうか。それを考えると強烈な自省感を覚えた。
「きれいですね」
峯本が何も言葉を発しないのを気にしたのか、工藤がいった。さっきから何度も涙を拭っているせいで、彼の手の甲はかなり濡れていた。
「そうでしょう?」と涼子の母が視線を向けてきたので、はい、と応じた。しかし涼子の姿を見て、美しいとはとても思えなかった――。
翌日に行われた葬儀にも参列し、峯本は火葬まで立ち会った。涼子の母は、ぜひ遺骨の一部を持っておいてくれ、といったのだが、彼はそれを拒んだ。その資格はないと思ったのだ。やがて葬儀は終わり、峯本は一人で帰路を歩いていた。
未来を展望し、活き活きとしていた涼子が白く動かない状態になり、そして骨になり、すでに灰となった。それなのに、まだ彼女の死を受け入れることができないでいる。高校を卒業したらプロポーズしようと考えていた。彼女と明るい未来を生きていこうと思っていた。そこに訪れたのは突然の死だった。受け入れられるはずがない。
峯本はアスファルトに膝をついた。涼子の棺を送り出す時のことを思い出したからだ。最後に花を添えたのは他でもない彼だった。埋もれそうなほどの花に包まれた彼女の胸の上に、峯本は一輪の白い薔薇を載せた。
空が薄暗くなった。それが彼女の死が事実であるということを突き付けてくるように思えた。
5-2へと続く……