![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/164078830/rectangle_large_type_2_c19e4183692a3bc98d0c62de54af580e.png?width=1200)
連載長編小説『破滅の橋』第一章 亡霊4
4
「浩平が羨ましいわ」ごくごくと中ジョッキの半分ほどまで喉に流し込むと美味そうに息を吐いてから工藤がいった。峯本は、親友と二人で居酒屋に座っている。
工藤は大企業の生産管理部に務めていて、ちょうどその職場の愚痴を聞かされたのだった。工藤がいうには生産管理部は営業部と並び立つ出世コースらしいのだが、彼が希望していたのは営業部だったためこうして文句をいっているのだった。
工藤とは今でもこうして飲む仲であり、彼は入社直後から営業部に配属されなかったことに対して不満を漏らしていた。生産管理部に所属してまもなく一年が経とうとしているが、彼の不満は収まるどころか膨れ上がっていた。
峯本は何ともいえない苦笑を浮かべて季節外れな小麦色の肌をした親友を見た。
「でも、生産管理部だって出世コースなんだろう? じゃあそこで頑張っていけばいいじゃないか」
峯本ならそう考える。事実、工藤の会社の現社長は生産管理部から出世していった人物だし、副社長や専務にも生産管理部、それから営業部出身の者が多いらしい。工藤が生産管理部に配属されたのは会社から将来を期待されていると考えるのが妥当だろう。
彼の人間性は十分に伝わっているはずだ。
「それが正論なんだよなあ。すでに出世コースから外れた同期たちもいるわけだし、我が儘ばっかりいってられないんだけど……」
「営業に回りたかった?」
峯本が工藤の言葉を補うと、工藤は眉根を寄せ、うんと微笑しながら頷いた。
「本当、浩平が羨ましい。楽しいだろう、いろんな人と出会えて」
「どうかな」首を傾げながら本音をいった。工藤のような考え方をしたことはなかった。たしかに営業という仕事は人間関係が大事だし、取り引き先では多くの人と接する。しかしそれを仕事と割り切っているせいか出会いとは思わないし当然楽しいとも思ったことはない。
それでも会社の利益に直結する仕事を任せてもらっているというやりがいは感じている。それが楽しいということなのだろうか。
「やりがいはあるだろう」
峯本の心を見透かしたかのように工藤はいった。
「それは、まあ」
だろ、というと工藤は店員を呼び、ビールのおかわりを注文した。彼に煽られるように峯本もごくりとビールを飲んだ。
食事を摂りながらお互いの近況を語り合っていると、不意に工藤が「みんなは最近どうしてるだろうなあ」と口にした。
そうだな、と思案顔を浮かべつつ先日美智子と仕事の関係で再会したことを話した。工藤は思いの外、食いついてきた。
「美智子もこっちに来てたのか」
「俺が初めのほうから営業で回ってた店のひとつだったのに初めて見たから驚いたよ。まさか河村さんに会うとは」
峯本が店名や場所を教えると、工藤は悪戯っぽく笑って、今度行こうかな、といった。仕事の邪魔になるから行かないでやってくれ、と峯本は返した。
「俺は地元の友達とは会ってないな。なんせ外回りに出ない仕事だからな」自嘲気味に笑う工藤がおかしくて峯本も笑った。
「外回りに出てたってそう簡単に昔の友達とは会わないよ」
そんなもんかあ、と薄笑いを浮かべながら工藤は箸を弄んだ。
時刻は午後九時を回り、会計を済ませるグループが目立ってきた。今日はあまり盛況ではなかった模様だが、客が腰を上げる時間が集中してしまったせいで店が一気に萎んでしまったように感じた。
ところが、空気の淀みはずいぶん薄れたように思う。
すでに注文した料理はすべて平らげていた。しかし店内は比較的空いているため、まだこうして腰を落ち着けているのだけれど、工藤は少し険しい表情を浮かべていた。
酔いが回っているにも拘わらず、彼の顔にどこか張りつめた空気が漂う理由は峯本の恋愛事情の他にない。工藤は相当気を遣ってくれている。ところが、工藤の場合、すぐに顔に出てしまう癖があるのでこうしていつも察知してしまう。だから、いつも峯本が口火を切る。
「俺の恋愛事情が気になるのか?」自分自身の緊張も和らげるために笑みを浮かべながらいった。
工藤は赤い顔をしながらだらしなく笑った。
「いつもと変わらないよ。彼女もいなければ親しい相手もいない。そんなことより翔太はどうなんだ。梨沙ちゃんとはうまくいってるのか」
工藤は首を傾げただけで、峯本の質問に答えようとはしなかった。
「俺のことはどうでもいいだろう? 問題は浩平、おまえだ」顔は赤いが瞳はしっかりと峯本を捉えている。「べつに恋人がいなくたっていい。もっと初歩的なことだよ」
「初歩的?」
うん、と工藤は頷いた。「恋人どうこう以前の問題。好きな人とか、この人きれいだな、とか、そういうのはないのか」
峯本は職場や取り引き先で接することのある女性を何人か思い浮かべた。
「まあ、きれいだなって思う人とか、この人いいなと思うことはあるよ」
「話しかけたりはしない?」
まあ、と峯本はいった。あくまで仕事関係者であり、峯本の恋愛対象には入っていないのだ。それでも社内恋愛なんてものができれば、職場での楽しみがひとつ増えるとは思う。
どうしてだよ、と少し大きな声を出すと、工藤はネジが外れたように小さく長く笑い出した。「あの時とはえらく違うな」
工藤のいうあの時、というのは峯本が初めて涼子に話しかけた時のことだ。
新学期が始まり、しかし普段と何かを変えるようなこともなく峯本は教室に入った。ちょうど工藤と「同じクラスだ、ラッキー」と話しているところに涼子がやって来た。
一目惚れだった。
その時工藤が自分に対してどんなアクションを起こしていたのかなんて知らない。もしかしたら峯本の腕を掴んで必死に止めていたかもしれない。むしろその逆で面白おかしく事の成り行きを眺めていたかもしれない。
気づいた時には、涼子に話しかけていた。
勢い余って告白したことは覚えている。返事は、「え、いきなり?」だった。我に返った峯本はしどろもどろになり、身振り手振りで誤魔化しながら自嘲笑いを浮かべたり、焦ってしまって自分の髪をぐしゃぐしゃ掻き回していた。
それから何度も会話を重ね、デートに行き、やがてもう一度、きちんと告白する時がやって来た。その場を設けてくれたのは工藤だった。結果はもちろんオーケー。じつは涼子も彼に一目惚れしていたというのは後から聞いた話だ。
「涼子みたいな人はいないってことじゃないか。あれは特例だ」緩んでいた口元をきゅっと結び、真剣な眼差しで峯本はいった。
工藤は呆れたように吐息をつきながら椅子の上で尻をずらした。峯本から視線を外すと伸びをしながら欠伸をした。
特例ねえ、と呟くと酔いが醒めたかのように工藤の表情筋が引き締まった。「恋人を失って悲しいのはわかるけどよ、そろそろ吹っ切らないと、おまえはいつまでたっても今のまま」いいや、と工藤はかぶりを振った。「あの時のままだ」
ちらりとこちらを一瞥すると工藤は柔らかい笑みを浮かべた。
「そうしないといけないってことはわかってるんだけどな」峯本は苦笑した。「そうすると涼子を忘れてしまうみたいで……脳も体も無意識に拒否反応を起こすんだ。それに夢のこともある」
「ああ、例の……。まだ続いてたのか」
うん、とテーブルに視線を落としていった。「何なんだろうな。夢に出てきてくれたって言葉を交わせるわけでもない、声も聞けない、ただじっと見つめられてるだけ――何かを訴えかけるようにな」
訴えかける、と工藤は峯本の言葉を繰り返した。「それはあるかもしれないな。涼子だって、自分に死が迫ってることはわからなかったんだ。未練はあるだろうな。未だ成仏できず、何かを恋人に訴えかけている……か」
「でも声は聞けない」
峯本がいうと工藤はゆっくりと瞬きしながら首を縦に折った。
「坂田のことは忘れろっ」腕を組んだ工藤が瞼を伏せながらいった。「覚えてるか?」
もちろん覚えている。当時峯本たちの担任教諭だった瀬川が事件のあった翌日のホームルームで誰よりも顔をぐしゃぐしゃにしながら述べた言葉だ。その時の教室の様子、雰囲気、すすり泣きの音、細胞をえぐるような陽射し、すべて鮮明に思い出すことができる。
峯本は頷いた。
瀬川教諭のこの言葉には続きがある。
それを工藤が代弁した。
「坂田のことは忘れろっ。でも坂田のことは忘れるな」
担任教諭のこの言葉をきっかけに、生徒たちから流れ出る涙の量は増え、またその涙はどんどん熱を帯びていった。誰もが泣いた。峯本自身、あの日以上に涙を流した日などない。しかし後になって思うのは、あの時の瀬川の言葉が多くの生徒を悲しみの底から引き揚げたということだ。何通りもの解釈ができそうな、瀬川の哲学的な言葉が生徒たちの重荷を解いたのだ。奈落の底に残ったのは峯本ただ独り。
目の前の工藤は一度涼子を忘れた。しかし悼みながらも彼の中では涼子の記憶が、思い出が残っている。
たった一度だとしても、峯本は彼女のことを忘れたくないと思っていた。そのせいで瀬川の言葉を受け入れられなかったし、何もできない無力な自分を責め苛んだ。
工藤のいった通り、自分は今もあの時のままだ。
「未来の話をしようや」工藤は残り少なくなったジョッキのビールを飲み干し、音を立ててテーブルに置いた。
「未来?」
峯本は首を捻った。
「そう、未来」工藤は、彼自身と峯本を交互に指した。「これから先、俺たちは出世して、結婚して、新しい命を授かって、子供を育てて――そして生きていく。十年後、二十年後、三十年後、いったい俺たちはどんな暮らしをしてるんだろうな」
峯本は工藤から暗示されるただならぬメッセージを敏感に感じ取ってしまった。そのせいで言葉に詰まった。
「このまま何十年も生きていくのか?」
工藤の問いに首をすくめた。
「未来のことなんてわからないよ。こんな俺でも、もしかすると変わってるかもしれない。でも今のまま毎日を消化するだけの日々を送ってるかもしれない」
工藤は弱々しく首を振った。
浩平、と静かな声で工藤はいった。「俺もおまえも、他の誰でも、確実に未来に向かっている。みんな前を向いてるんだ」
工藤が熱弁を止める気配はない。
彼は人差し指を自分の鼻の頭に押し付けると、俺も、といった。「瀬川先生も、美智子も、誰もが涼子を亡くした悲しみを押し殺して暮らしているし、涼子の死というしがらみから解放されたことは一度もない。それでも、涼子が生きることのできなかった今の時間を、せめて前を向いて歩いていこうとは思わないのか。俺はそう思って今日まで生きてきた」
工藤は目を血走らせながら挑むように睨みつけてきた。ふと肩の力が抜けたと思うと、峯本は無意識のうちに口元を緩めていた。
「ありがとう」小さく呟き、時刻を確認した。これ以上続けられると自分を見失ってしまいそうで怖かった。午後十時が迫ってきている。峯本は逃げるようにいった。「もうこんな時間だ。翔太も明日仕事だろう? 今日はこの辺にしよう。何だか少しだけ、心が前を向いたような気がするよ」
工藤は大きく首を縦に動かしながら顔中に笑みを弾けさせた。「それはよかった。本当によかった」
「今日は俺が出すよ」肩に置かれた工藤の手をゆっくり下ろしながらいった。工藤は折半しようと申し出たけれど、峯本はそれを強く拒んだ。
伝票を持ち、財布から紙幣を取り出しながら、本当にごめんな、と腹の底で謝罪した。この支払は罰金みたいなものだ。親友に平然と嘘を吐いた罪は重い。
精算を終え、満足げな笑みを浮かべる工藤を見ると心苦しくなった。親友は、自分のついた嘘を鵜呑みにしている。
店を出て、別れた工藤の背中を目で追いながら呟いた。
彼女を亡くした悲しみを押し殺して生きていくなんて、俺にはとてもできないよ――。
5へと続く……